福島県教育センター所報ふくしま No.36(S53/1978.6) -004/034page
うゆえにである。それは,全く杞憂に過ぎないというのであってほしいのである。念を押し過ぎる愚かさをわらわれるならぱむしろありがたく思うものである。それはとにかく,
(1)「ゆとリ」とは何であるかについて若干の考察をすることとする。
1-言海によれば,ゆとりは,〔緩取(ユルミトリ)ノ意カ〕物事ノ間二寛(クツロ)ギヲ置クコト。とある。
2-吉本二郎氏は,ゆとりというのは,活動者にとって時間的,空間的に主体的行為を営む余地を残していることを一般には意昧するものといってよい。この主体的行為が単に自発的であるに止まらず,真に意義の感じうるもの,実りあるものとして成立するときは,それは充実した行為として受けとられるものである。一と言っている。
3-重訟鷹泰氏(注2)は,ゆとりとは,自由に動ける空間であり,自由に使える時間であリ,自由に使えるエネルギーや金銭のことである。主体が自分の欲するように行動することを許容する空間であり,時間であり,エネルギーである。といい,さらに,周りの人や物との間に適当な距離(注3)をとること,前の活動や次の活動との間に適当な間隔をとること,現在の活動に傾倒しながらも、次の活動へのエネルギーを残しておくこと,それら,すべて「間をとる」ということが。自由租活動に備えてのものであリ,そのままゆとりのあることになるのは当然のことである。と述べている。
このように見てくると,ゆとリ(注4)というのは,活動の主体の活動が息がつまりそうな,身うごきのならないようなものでなくて,幅のあるもので,つぎの活動を押しすすめる,しかもよりよく展開できる状態にあるのを意味しているということができよう。
ところで,この上うな状態を成口立たせる条件としての時間や空間やエネルギーや金銭といったものが存在しているとしても、人間において、ゆとりの問題を考えれぱ,それらの条件に対処する心のあり方が問題である。それらの条件を,つぎの活動をよりよく展開するものとして機能させる一本来それらの条件にはしかく機能する機能を内包しているのだが一その心ぐみが主体において発動しなけれぱ,何にもならない。むしろ、主体の活動は,弛緩し果てることになる。緩取りはゆるみっぱなしになり・「間をとる」ことは,間のぴになりおおせことになるであろう、2の後段において言及したような状況の出現する所以なのである。
どのような状況内にあっても,対自的に内省することができるというのが,「心のゆとり」というものであると考えられるが,人間において,ゆとりの問題は,「心のゆとり」が根本問題となるわけである。
(2)ゆとりある生活とは,上来述べたところから,上述したゆとりが機能している生活ということになろう。元来・余地・余裕,余白,間(ま)など,いずれもゆとリと類縁のことばであるが,そのままではゆとりとならない場合がある。これらのことぱの示す内実が,活動する主体の心にかがやきを点じるとき,それは,主休がその内実において自らの心にかがやきを意識することであるが,このようになることによって主体の存在はのぴのぴとし、いきいきとし、ゆたかなものとたる。もちろん,その活動は充実したものとなる。このようになるとき,余地,余裕等はゆとりとなっていると甘いうるであろうし,このようになることをゆとリがゆとりとして機能していると言表してみたわけである。ゆとりがあるとは,このように見て、ゆとりがゆとりとして現に機能している事態をいうと考えるものである。
(3)ゆとりのある生活を学按生活にひき当てて考えてみるとどうであるか。校地,校舎,施設設備,職員児童生徒組織,財政等々,考索を加えるべき多くの問題があるが,それらは措くこととして,学校生活が,授業と授業以外の領域とから成り立っていることにかかわって考えてみることとする。
至極当然のことなのであるが,授業についても,授業以外の生活領域についても,ゆとりあるように配慮されなければならない。ところが,後者については,「ゆとりの時間」とか、「学校裁量の時間」などと称して,この領域こそゆとりある学校生活の本命であるかのように振る舞うことになりそうな気配があって,はなはだ不安である。この領城の生活のあり方について子どもと地域の実態に即して創意くふうをこらすことは,言うまでもなく大事であるが、ゆとりある授業において充実した学習が行われるように配慮しなければならない。この当然すぎる程当然の事柄を決して粗略にあつかってはならないと思う。
吉本二郎氏は,さきに引用した文につづけて,「一教授学習の場にひき入れて考えれば,授業そのものが,ただ詰め込みで,機械的に次々と進行する過程では,ゆとリも充実も存在しないことになろう。そうではなくて,価値ある教材が的確にとりあげられ,児童の知的興奮を高めながら,そこに知らず識らずの間に成長を遂げていく過程が展開されることである。のんびリした授業ではなく、知性的に駆り立てていく授業の成立こそ、ゆとりと充実の両側面を充たすものといえるであろう。と述べている。味わうべきであると思う。ただ駆り立てていく