福島県教育センター所報ふくしま No.36(S53/1978.6) -005/034page
という表現はいささか気にたる曲子どもが能動的に迫究していくというのでなければなるまい。ところで,授業は教育課程にもとづく指導であるから,ゆとりのある授業を展開し充実した学習を成就させるためには,教育課程の編成に当ってこのような授業になるよう,ゆとりのある教育課程であるように十分配慮しなけれぱならない。事前調査や事後調査,練習などがよく行いうるように,フィードバックも必要に応じてよく実施できるように配慮された教育過程でなければなるまい。従前のものが果してどれほど,こうした間題に対処したものであったか,教育の現場では検討ずみのことと思うがどうであろうか。とりわけ、学習における練習の問題が教育課程の編成の上で配慮される必要があろう。あくまで軽く見られていはしないか。
かくして,学校生活の全体にわたって,ゆとりが機能するように配慮されたなかで,ひとりひとりの子どもは,のぴのぴと、いきいきと、能動的に活動し、互いにささえ合い励まし合う。そういう在り方を基盤として,自分で考え判断できるカがしだいに育ち,学カもたしかになり,身も心もその子どもなりに成長しつつあるようになる。そこからそれぞれの子どもは,自信をもてるようになるだろうし,自信がつけば,それだけゆとりのある活動ができるようになる。つまり、ゆとりのある生活によって、ゆとりのある生活を創り出すことができるという望ましい循環として上昇充実の生活が実現するであろう。
5.教育における「ゆとりと充実」を成就させるために
(1)世の大人たちが,教育についてゆとりのある見方をし,対処しなけれぱならない。人間性豊かわが子に育ってくれることを願うのであれぱ,子どもの特質も適性もお構いなく,やみくもに,いわゆる受験科目による狭い教育に駆り立てるようなことはできないはずである。さらに学校教育によってのみ人間の教育が成り立っとも考えることはできない。大人たちの立ち居振る舞いが大きい教育力をもつことをあらためて深く思い自己教育にいそしむべきであろう。いわゆる私人の教育能カを回復しなけれぱならないのである。
大人たちのこのようなあり方が遍満し,好まLい工一トスを醸成することなしに,学校教育においてのみ,ゆとりと充実を念願しても実現ははなはだ困難であるだろうと思う。
(2)にもかかわらず,教師は教育におけるゆとリと充実の問題解決に挺身するのでなけれぱならない。この間題の深い洞察とそれにもとづく方法上の創意工夫が間われている。このことに実践を以て答えたければならないのである。このことを通して,好ましい工一トスの醸成を呼ぴかけなけれぱならない。冒頭引用Lた高橋氏の指摘するような今回の教育課程改善の効果が裏目に出るか出ないかは,教師の見識にかかわるということをたしかに身にしめて事に当らなけれぱならない。
ところで,子どもがゆとりのあるしかも充実した学校生活が送れるようにするには,教師その人の学校生活がゆとりのあるしかも充実したものでなければならない。教師みずからがしかく努力することは当然ながら,とりわけ教育行政の姿勢が間われることになろう。地域社会,父兄のあり方は,(1)に述べたことにおいて言及したこととする。
(3)さきに,「心のゆとり」が根本であると述べたのであるが,われわれは,「心のゆとり」を培い育てていかなけれぱならない。そのためには,つぎのように努めるのでなけれぱならない。紙幅の都合上,メモ風に記すにとどめる。
1-意味への意志に生きようと心がけ,つとめること。
2-感情を洗練(注5)する努力をすること。
3-ゆとりは元来,余地,余裕,余白,間(ま)等における美意識の覚醒とそれにもとづく活動の展開およぴそのことによる活動主体の存在の高まりをもたらすものと押えることができるという立場において,美意識を育てることにつとめること。 4-自己統御ができるように自己訓練にはげむこと。
5-他人の心の唾とりを大事にすること。
6-つねに良心の声に聴従するように努めること。
7-急迫した事態においても,全体を観ることができる自分であるようにっとめること。
このように自らに働きかけながら、子どもたちにも、このようにあるよう働きかけていくべきであると思うのである。
〔注〕
1.郡山女子大学紀要第10集の拙論を参照されたい。
2.吉本二郎,ゆとりのある,しかも充実した教育課程
をめざして・初等教育資料No.344
3.重松鷹泰,教育における「ゆとり」とは何か。児童心理No.362金子書房。
4.同上
5.フランクル著作集2.みすず書房を参照されたい。
1.は生きる意味を正しくおさえていれぱ,心にゆとりを生むことができるという考え方に立って述べているわけである。