福島県教育センター所報ふくしま No.37(S53/1978.8) -015/030page

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随想

本物とにせ物

教科教育部  古関 齊

現在の日本は「季節感や味覚喪失」の時代であるといわれている。メロンやすいか,ぶどうなどの果物はもちろんのこと,なす,きゆうり,トマトも―年中口にすることができるし菊もバラもカーネーションも―年中いつでも咲いていて季節を感じさせない。それは現代社会の巨大な需要にこたえて,商魂は季節におかまいなく常に生産し,時知らずの野菜や花を市場へ供給するわけで,薄味の果物や野菜を食べ,浅色の季節はずれの花を見てこれが本物だと感じさせられている。日本人の自然からの細やかな感受性はどうなってしまったのだろうか。

子どもの好むフルーツ・ジュースというと,実際にリンゴやミカンを搾って作っただけの示ーム・メイドの純天然ものよりも,果汁はごくわずかであとは人工的に味づけをした市販のびんか,かん入りのものをおいしいと感じているらしい。

ハンバーグステーキにしてもカレーライスにしても同様で,家庭でコツコツ手作りしたものよりも,テレビに出てくる大手会社の大量生産品のほうに味覚がならされているようである。しかも食品の場合,材料にしても調味にしても,本物を節約して人工的な工夫でとりつくろっているたぐいの商品のほうに多くの子ども達の味覚の照準が合わされて,さも本物のように知らず知らずのうちにそう思いこまされている。これでよいのだろうか。内的価値よりも表面的な見た目や口当りのよさが歓迎される傾向がある。

こうした現象は生花や食生活だけではなく,私たちの生活の基本としてのものの見方考え方や生き方にもでてきているように思えてならない。

音楽の世界でも,作曲者の心を深遠に表現しているが内面的で渋く,地味な演奏であったりするとつい低く評価されて,うわべ華やかでカッコいいものがもてはやされる傾向が見られる。どうも生活の対象が外向的であまりに他人を意識しすぎて,本物(本質)を見失っているのではないだろうか。

近年,ママさんコーラスが盛んで,全国組織までできている,毎日多忙な生活の中から音楽を通して人とのふれ合いをもつことは意義のあることで,生活にも潤いや張り合いがでてくると思われるが,家の中でも母親の歌声を子ども達は期待している。

ある時,ママさんコーラスの団員の子どもに「あなたのお母さんは,いつも美しい声で歌っておられるが,あなたが小さい時,子守歌や歌を沢山歌ってくれたでしょね。」と尋ねたことがあった。その子は「うちのお母さんは,子守歌や歌を―度も歌ってくれたことがない…‥。」とさびしそうに言った。本当にかわいそうであった。

歌を忘れたカナリヤならず,子守歌や歌をテレビやレコードに代役させて歌ってくれない母親が案外多いようである。どんな名曲,名歌手の歌ったレコードより,心から歌ってくれる母親の方が子どもの人間形成にどれだけ役立つか知れないのに。

音楽教育でも外向的指向は散見される。器楽合奏が年々盛んになっていくことは,誠に結構なことであるが,教育的要請によるのか,メーカーの商魂によるものか,楽器の編成も年々拡大されて,そのことが音楽の条件であるかのように考えているような感じさえ受ける。

A県のある小学校を訪ねたときのこと,その学校は小学校としては珍しく吹奏楽のクラプがあり,なかなかしっかり演奏に私は驚かされた。しかし知り合いの低学年の先生に,授業のあれこれについて尋ねているうちに「オルガンが足りなくて音楽の授業ごとに運んでいる。」と聞かされた。これはどうしたことか。先ほど以上に驚き理解に苦しんだ。

これは極端な話だろうが,大なり小なりこのような傾向はどこにでもあるのではないだろうか。

吹奏楽がにせ物とはいわないが,何か本物(本質)がすりかえられて,これが本物だと思いこみ信じてしまうことがおそろしい。


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