福島県教育センター所報ふくしま No.38(S53/1978.10) -019/030page

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随 想

愛 誦 二 句

経営研究部  原  洋

俳句をはじめて4年ほどになる。日頃愛誦している句より二句を選んで俳句鑑賞をこころみた。もとより素人の余技,楽な気分で読んでいただけたらと思う。

  郭公や韃靼の日の没るなべに  山口 誓子

蒙古の草原に日の落ちる頃,どこかで遠く郭公のなく声が…・。というほどの意味だが,この句には流れる余情とリズムがある。韃靼(ダツタン)というシルクロ―ドの古い騎馬民族の呼名に異国の旅情が漂い,「没(イ)るなべに」という古雅な万葉風の表現が太古の懐想を誘うような郭公の声に又ぴったりである。タ暮のしじまや草原をわたる微風さえ感じられる。

誓子には秋桜子とともに深く万葉集の影饗をうけた時代があり,「なべに」という語法には「と同時に」という時間的な用い方もあるようだが,私は「あたり」「ほとり」という場所の意味も含めて,時間と空間との渾然―体をなすところ,初夏の赤いタ日と遠郭公とを切離すことの出来ない事物の本性においてとらえた名句と考えたい。

誓子の句と言えば

○ 夏の河赤き鉄鎖のはし浸る

といった感情を冷厳に拒否した,いわば即物的な句が代表作としてあげられるが,私はむしろ若い頃の

○ 走馬燈青水無月のとある夜の

といった幻想的な句や

○ 虹といふ悲しきもの少年よりぞ知る

といった,溢れる抒情の句が好きだ。

もっとも,―般的に言って,俳句は感情の露骨な表現を嫌うようである。写生ということもよく議論されてきた。しかし全く抒情を拒否した俳句がはたして可能か疑わしい。発句的発想は観察からえたデータをただ整理するだけでは生れない。そのデータを「情念によるイマジネーションでつなぎ合せるところから生れる」と中山正和が言っている。 (「発想の論理」中公新書)

とすれば,俳句をつくる創造の営みにはイマジネーションを豊かにする情念が中心にあると考えるべきで,情念による発想の断絶と飛躍の中にむしろ「創造の秘密」がかくされているのではなかろうか。誓子は「物を詠め心を詠もうとすると行づまる」という。これは発句の過程における情念の働きを拒否したものではなく,抒情にたより過ぎる作句態度を戒めた言葉であると思う。

  空と山睦みて狐火がともる  佐藤 鬼房

佐藤鬼房氏は「天浪」の同人。塩釜の人である。若くして現代俳句の先端をつっぱしり,社会主義リアリズムの傾向をおびた難解な句をつくる作家として知られてきたが,最近とみに老成の度を加え,伝統俳句に帰られた。が,なおその感性の鋭さにおいて天浪同人中異色の存在である。

さて,上掲の句だが,茜色の冬のタ空も次第に暮れて光を失い,空か山かその境も定かでなくなった,まさにその刻(トキ),あの怪しげな狐火がともるのだ。というほどの意味。狐火は冬の季語。歳時記によると,「狐がともすと信ぜられる燈火。白みがちで少し青味がある。鬼火ともいう」 (角川編)とある。狐火がともるのは冬茜が残照としてのこっている間でも,深夜でもいけないのだ。「空と山の睦みの刻」まさに,その―刻でなければならないのだ。誓子の句と同様,刻々に移りゆく時間の推移を山と空という空間でみごとに切って,狐火の本性を鋭くとらえた名吟というべきか。

初めて出席した相馬市の新年句会で,拙句,

○ 渚まで雪の深きよ去年今年

が,選者,鬼房氏の特選どなり,記念にこの「狐火の句」の色紙を戴いた。額装して書斉にかかげ,朝タながめている。鬼房氏は,「俳句はつぶやきである。」と言い,

○ いくたびも雪の深きを尋ねけり

という,子規の句を引用して拙い私の句をほめて下さった。初心者の私はいたく興奮したことを憶えている。その意味で,私にとっても忘れ難い句である。

俳句の作法に又,「舌頭百遍」ともいう。声に出して何回も詠んでみよ,ということだ。語句には発音に伴う情感があるという。二人の句もぜひ声に出して味わっていただきたい。快い,悠大なイメージと湧きおこる確かな情感の手ごたえがあるはずだ。

もっとも両師の句を味わえば味わうほど,作句の道のはるかなること絶望に近いものを感ずる昨今ではある。


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