福島県教育センター所報ふくしま No.41(S54/1979.6) -003/038page
(6) 健康でたくましい身体の鍛錬
(7) 家族,郷土,祖国を愛するとともに,国際社会 において信頼と尊敬を得る日本人,
ということになろう。
ところで,身体に障害のあるものにとって,(6)項 はどう考えればよいのであろうか。ひとりひとりの 児童生徒に対してというからには,どうしてもゆる がせにすることはできまいと考える。思うに,これ は,障害をのりこえて,あるいは,のりこえようと する意欲において,身体に「主」たる自己を確立す ることを自らに期待するあり方を実現するのでなく てならないというのであろう。
さて,このような資質内容のあり方は,ただ単に 児童生徒についてのみ期待すべきものであるだろう か。世の大人たちが,自らに期待し,児童生徒とと もにかくあるように努めるべき目あてでもなければ ならないと考える。いうならば,共志向性において 受けとめなければならないと思う。国民教育の目的 を規定した教育基本法第一条の示すところが,国民 の一人一人が自らをそのように鍛え上げるべき指標 として受けとめられるペきであるのと同断であると 言わなければならない。
世には往々にして,望ましい人間像は,児童生徒, 総じてこどもあるいは青少年に対して期待すべきも のとのみ考える向きがないでもない。大人たちは, 自らをそのように律していかなければならないこと に思いを致さないのではないか。大人たちは,すで にこのように望ましい存在であると自らを持してよ しとするのであろうか。国民教育の根本的弱点をそ こに見る思いがするのは,筆者だけではあるまいと 思う。
それはとにかく,教育基本法制定後30年にして, 教育をめぐる状況は,今回の答申の提唱する望まれ るべき人間像の資質内容の条件に配慮しないではい られないものをもたらしたと見なければならないで あろう。
2.教育をめぐる状況について
教育基本法を制定して,新生日本の国民教育の方 向を定め,それに則って国民教育を展開してきたわ けであったが,制定後20年にして,その第一条の内 容は空洞化しようとして来た。その時点で,「期待 される人間像」が中央教育審議会第十九特別委員会 から報告されたのであった。それは,教育基本法を 日本人の精神的風土に定着させるためというねらい をもち,国民一般とくに教育者その他,人間形成の 任に携わる人々の参考として活用されるようにとの 願いをもって,小冊子として刊行されたのであった。
(文部省広報資料33,昭和41年11月発行。)
ところが,当時はなはだ悪評をうけたのであった。 その理由はいろいろあるであろうが,いわゆる上意 下達の気分をともなって,「期待される人間像」を 官制的に押しつけられるということに対する感情的 反発があったことも否定できないものがあった。
しかしながら,その後十数年を経た今日において もなおその指摘する内容は新鮮かつ鋭いものがある。 にもかかわらず,ほとんど無視されるような状勢で あったと述ペれば,言い過ぎであろうか。教育にた ずさわる者は,十分にその具体化をはかったであろ うか。一般に,機構による教育への過熱は,いよい よ私人による教育の衰弱をもたらし,一方学歴教育 においては,43年以降現行学習指導要領による教育 が展開されたのではあったが,根底的な問題,すな わち,望ましい人間像を正しく問い,その育成につ ねに具体的に心を砕くという問題の解決に迫るには, 教育現場の意識にはへだたりがあったように反省さ れるのである。教育の現代化などと称せられる動向 も,―それはまことに重要なことなのであるが― 表層をいたずらになぞるに過ぎなかった感がある。 このようにして,次に引用するような状況となった ことは,われわれお互いが見てきたところではない だろうか。すなわち,「昭和40年代の教育の深刻な 問題として,その歪や不毛性がさまぎまな表現で指 摘されてきている。過保護ともやしっ子,甘やかし と甘え,非行,三無主義,受験競争(むしろ受験戦 争―筆書添記),詰め込みと落ちこぼれ,学歴主義, 人間喪失などである。そして,その解決対策への意 見や希望もまた,さまぎまに議論され,主張されて きている。学校教育の多様化と弾力化,家庭教育の 重要性,社会・生涯教育の充実,学歴より実力の尊 重,人間性の回復や人間の復権などである。」 注1 という