福島県教育センター所報ふくしま No.41(S54/1979.6) -004/038page
次第である。
このような状況をふまえて,答申においては,前 述したような,望ましい人間像の資質が述べられて いると考えられる。それにしても恐れるのであるが, 教育基本法を日本人の精神的風土に定着させるねら いをもって国民に訴えたと見られる「期待される人 間像」の表明が,定着したとは見られないのと同様 に,このたびもまた,空文に帰しはしないかという ことである。しかも今回のは,小学校・中学校・高 等学校という学校教育の枠の中での表明であるだけ に,家庭と社会への滲透をはかる努力をしなければ, 望ましからぬ時運の展開に押し流され,その影はう すれてゆくことになりかねない。しかも,教育現場 において,ある特定の学校生活の時間帯における実 践計画にのみ心をうばわれかねない傾向すらあるに おいてはなおさらである。教育課程の基準の改善の 関連事項の最後に,家庭教育及び社会教育との関連 がのべられてある所以を,具体化しなければならな いのである。実は,すでに述ペたように,望ましい 児童生徒像を,世の親たちならびに一般的に言って 大人たちが,未来を真っ当にひらいていくために, 自己教育の目あてとして,共有してもらいたいので ある。この親たち大人たちの自覚と実践なくしては, 学校教育が十分そこに到るべきところに達すること は,きわめて困難であるといわなければならない。 このことを最も恐れるのでなければならない。学校 教育が充実向上するには,いわゆる私人の教育能力 がたしかなものになり,高まるという基盤がなけれ ばならないという根本問題を深く心にかけなくては ならない。学校教育にたずさわる側から,どのよう に対処したらよいかについて,4においていささか ふれてみたい。
さて,今まで述べてきたところは,教育課程の基 準の改善のねらいにおいては,どのような望ましい 人間像をえがいているか,またその背景となる教育 の状況はどうであるかについてであったし,教育基 本法や「期待される人間像」に関説してきたところ でもある。
たしかに,このような考察は,今回改訂された教 育課程の基準に関して,目的論的に対処することで あって,方法論的考察に先行すべきものであり,新 教育課程の根底を問うという設問に対しては,当然 行われなければならないと考えられるのであるが, 新教育課程が,21世紀への国民教育としての学校教 育のものであるのでなければならないとする以上は, 冒頭いささか言及したように,世界史的転換に対処 する教育のあり方の問題を探究することによって, より深く根底を問うべきであろう。ただこのような 小論によって委曲をつくすことは不可能であるし, またその能力は筆者の力量をはるかに超えることで もあるが,次項において,一つの粗描を試論として 提供し,大方のご批判とご指導とを請いたいと思う。 新教育課程の基準の改善において示された望ましい 人間像の資質内容は,どのような歴史進展の原理に よって支えられるべきかの問題の解決への試論的ア プローチを粗描しようというのである。
3.新教育課程の目ざす望ましい人間像は,近代の 原理を超える原理によって支えられなければなら ない
世界史の流れを巨視的に見るとき,われわれは, 近代と呼ばれるものの最先端に生活していると言う ことができよう。人びとは,われわれの生活してい るのは現代としてとらえるのでなければならないと 主張するであろうが,近代といわれる時代の特色を なすものを,市民革命の流れにおける民主化の路線 と,産業革命の流れにおける工業化の路線とにおさ えるならば,今日はそれらの線上にあるのであって, その意味においては,近代の流れの裡にあると言い うるであろう。そして,この二つの路線の内容は, 複雑に相関連しながら展開してきたのであるが,そ の密度はいよいよ濃度を増し,その規模はますます 巨大化の方向を顕著にしておりながら,もはやその 進行を謳歌しつづけることはできなくなったばかり か,人類と人類が住居する唯一の宇宙空間であるこ の地球の前途に憂うべき様相を見とらねばならなく なっているのが,現代とよばれるのでなかろうか。
したがって,現代に生きるわれわれは,近代の進 展のなかから生じた深刻な矛盾を解決して,世界史 の未来をひらくべき命運を自らに引き受けなければ ならない存在であると言わぎるを得ない。