福島県教育センター所報ふくしま No.41(S54/1979.6) -016/038page
随 想
能 登 殿 の 矢 の 根
経営研究部 原 洋
医王寺を訪ねたのは葉桜の頃であった。
佐藤嗣信・忠信の墓は,寺の裏手の薬師堂の蔭に あった。剥落がひどく,碑面の文字はほとんど読め なかった。二人の忠節にあやかり,墓石を削りとっ て持帰るせいだという人もあるが,剥落は,むしろ 砂岩風の石質によるものと思われる。傍らの母,乙 和の墓は椿の大樹下にあり,嘆きをこめて蕾のまま 散るという花は,事実うす桃色の菅のまま一ばい散 りこぼれていた。
医王寺は,丁度花まつりであった。庫裏では,さ さやかな宴が開かれている気配であったが,本堂に は,粗末な花御堂の傍で折紙の花をくばる婦人が一 人,坐っていた。それにしても,釈迦生護の日に訪 ね得たのは奇しき縁とも申すべきか。
医王寺の宝物殿よ,宝物殿とは名ばかりの納戸で, 板戸をおしあけて中に入ると,ガラスケースに陣太 刀,弁慶の笈などが並んでいた。
笈も太刀も五月にかざれ帋幟(かみのぽり)
と,芭蕉の句にある太刀は,「奥の紳道」には「義経 の太刀」とあるが,それらしきものはみあたらなか った。中にも,目をみ張る思いをしたのは弁慶の筆 蹟と,嗣信を射殺した矢の根である。医王寺の門前 に立てられた「下馬」札の筆蹟は,弁慶のイメージ にぴったりの,いかにも雄渾なものだが同じく弁 慶の筆と伝えられる紺地金泥の般若経は,細かく神 経のゆきとどいた几帳面な筆蹟で,弁慶という人は 案外武骨の人というより,相当の知識人ではなかっ たかと思い直したりした。
赤く錆びた矢の根は,謡曲「八島」に,「判官( ほうがん) お馬(んま) を汀(みぎわ)に打ち寄せ 給へば,佐藤綱信,能登殿の矢先にかかって,馬よ り下(しも)にどうと落つれば……」とある,平家 のおん大将,能登守教経が放ったあの矢の根である。
義経が嗣信の戦死を悼んで,自分の直垂の抽とと もに父元治に伝えた,とあるが,赤子の手ほどもあ る矢の根が嗣信の体につきささるには余程の近距離 より射たものか。訪ねる人も少ない葉桜の寺のうす 暗い納戸に,この矢の根をじっと見つめていると, 遠い潮騒に交って源平の矢叫びが聞えてくるような 幻想におそわれた。赤錆びてひっそりとガラスケー スに納まっているに過ぎないのだが,合戦の修羅場 を彷仏させる生々しさを秘めて横たわっていた。
「奥の細道」によれば,芭蕉が医王寺を訪ねたの は元禄二年の五月週日とあり,「寺に入りて茶を乞 へば,愛に義経の太刀,弁慶が笈をとどめて什物と す」とあり,折から端午の節とあって,あの「帋幟 」の句が出来たわけである。
ところで先日,「曽良随行日記」を読んでみたら, 芭蕉がこの地を訪ねたのは五月二日のこととあり, しかも寺には寄らず,笈も太刀も実際は見ていなか ったようである。「寺によりて茶を乞へば」などと, 芭蕉の創作も相当のものである。とすると,「或は, 能登殿の矢の根も?」と,大分怪しくなってきた。
が,いたずらな詮索はやめよう。「事実は小説よ りも奇なり。」という言葉がある。これは反面,「小 説は事実よりも奇」なることを前提とした言葉であ ると思う。事実を見いだして,みじめな思いをする ことだってしばしばあることは,何人も経験してい るところである。事実を否定しようとは思わない。 ただ事実と同等に,フィクションやイマジネーショ ンを大事にしてゆきたいと思うのである。