福島県教育センター所報ふくしま No.42(S54/1979.8) -024/034page

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随  想

余     韻

教科教育部  古関 齋


 梅雨あけの7月中頃になると,きまって風鈴を軒端につるし,タベのひと時を暑いことも忘れて「チリン チリン………」と静かに鳴る清澄な響きに聴き入るのが楽しみである。風鈴を二個や三個と数多くつるして複音を楽しんでいる人もいるが,私には落着けない雰囲気で,風鈴はやはり一個の響きがいい。夏風に短冊がゆれて高音の響きが風まかせの不規則なリズムをきざむ。この不規則なリズムがまた面しろく,無念無想で吹く尺八の古曲のリズムや巡礼者の御詠歌を遠く近く聴く思いがするのである。
 鳴り響くといっても短い響きの余韻を楽しみながら,次の音が出る間のほんの瞬間的な間(ま)が、次の音を期待する心の高まりとなって,音を大切に味わって聴くようになる。音と余韻、閑寂と緊張のくり返しのなかに,何か日本的な音楽感情が感じられてくるのである。
 夕暮れに響き渡る梵鐘も好きだ。山に囲まれた土地では,鐘の響きが霧のようにあたりに立ち込め,うずを巻きながらゆっくりと無限の空間に吸い込まれていく,鐘の音が消える頃また一打ち清浄と響き渡って聴く者の身も心も洗われる思いで,次第に我れを忘れ無限の世界へと誘われていく。
 鐘を打つ寺男はもっと心が豊かであろう。余韻の消え去る頃合いを見計らって次の鐘を打つ。それは非常にゆるやかなリズムをつくり,鳴る鐘の音よりもむしろ余韻そのものを楽しむように,次の緊張した鐘を打つ。その余韻のなかに心をゆだね,祈り,やすらぎ,そして次の音への戦慄さえ感じているのではないだろうか。間(ま)のゆとりと充実,鼓手の鼓を打つ感性にもにた深い音楽の心が見い出されるのである。

 音を楽しむ心,音を創る心はヨーロッパの音楽と日本の音楽では,本質的に違うように思われる。
 ヨーロッパの音楽では,複音を好み一つ一つの音の連なりとしての旋律を大切にする。いわゆる音の線をいかに美しく,変化と統一・のバランスが保たれた表現であるかである。日本の音楽の場合は,一つの音の音色を聴いて楽しむ習慣というか感性があり,寺男の境地のように,音色や余韻を楽しみ味わいながら一つ一つ心を込めて音を創る。それは線約な指向に対して点的な指向といってもよいようである。

 研修講座に「箏の奏法」という講座があって.受講される先生は,いずれもヨーロッパの音楽を専門に勉強してきた優秀な先生方ばかりである。初めて箏を弾く人がほとんどで,爪のはめ方もわからず,爪の上に爪を重ねるといったはめ方をして爆笑する場面もたびたびであるが,皆熱心で短時間で「六段の調」の初段までとにかく進むのである。
 楽譜を実音化することは.ヨーロッパの音楽を勉強してきた人にとっては,箏の音組織さえ理解すればそれほど難しいものではないのだが,音楽としてどう読みとるかであろう。この講座で感じることは,総じて強弱のリズムやフレージングなどの音楽づくりが,ヨーロッパ音楽を指向し,日本の音楽としての味わいや情感が出てこないのである。一つ一つの音の余韻を楽しむ寺男のあの感性がほしいのだ。
 この日本人特有の音色や余韻を楽しむ細やかな感性が失われていくのは,単にヨーロッパ音楽中心の教育によるだけでなく,日常の生活のなかにそれを育むものが次第に少くなってきているからだと思われる。
 箏,三味線の死命を制する絹糸が,ナイロンやテトロンにかわり,箏や尺八がラワン製やプラスチック製の代用品になってくると,永い間培われてきた伝統文化やそれを支えてきた感性が,一つ一つ失われていくようで残念に思うのである。

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