福島県教育センター所報ふくしま No.43(S54/1979.10) -013/034page
さらに,個人の独自性ということについては,もっと深い立場からとらえられねばなりません。つまり,生育歴の違い・能力の違い・適性の違いというレベルだけでなく,ひとりひとりは,かけがえのない存在であるという実存的立場からの理解です。たとえば,「この万年筆」「この小鳥」は,もしなくなったとしても,他の万年筆・他の小鳥をその代わりのものとすることができます。しかし,人間はそうはいきません。この意味で「かけがえのない」ということは,人間のみにいえることです。
生徒の独自性を理解するということは,かけがえのない存在として生徒を理解するという意味で,単に存在したり生存したりすることを理解することではありません。生徒は自からがかけがえのない存在として自分を意識しながら,その存在のしかたを自分で選んでいくことができる主体的・独自的存在であるという意味で,生徒を理解することだといえます。
つまり,独自性の理解とは,究極において教師と生徒との人間としての実存的「出会い」であるといってもよいでしょう。〔問い10〕 教師が生徒を見る場合,ともすればおちいりやすい欠点として,どんなことが考えられますか。
〔 答え 〕 教師は生徒をよく見ているといわれる反面,教師の見方ほどあてにならないものはないという意見も聞かれます。日常の活動の中で,教師が普通生徒をどう見ているかについて考えてみます。
まず,ひとりの生徒の異なる面を見ることからくる教師間の見方の相違があります。たとえば,数学が嫌いで体育の好きな生徒について,数学の教師は「消極的で無気力」とみ,体育の教師は「積極的・意欲的な生徒」だと見てしまう。このような場合,相反する見解を互いに固執し,どちらかが正しいとしなければ気がすまないとか,教師の見方を親に押しつけたりすることは,指導上混乱のもととなりプラスにはなりません。むしろ異なる見方の中の積極的・肯定的な見方(その生徒の良い面)を大切にし,そういう面をもつ生徒が,他方ではなぜあんな姿を見せるのだろうかを教師間で共に考えることの方が賢明でしょう。同じ生徒を見ながらその生徒の見方が人によって違ってくるのは,見る人のそれぞれの主観に影響されるからでしょう。
主観的理解とは,見る人自身の準拠枠(frame of reference)による理解です。
とかく教師は,自己の生育歴や教育経験など長年培われた準拠枠に立って生徒を見てしまいます。たとえば,ある生徒の問題行動や発言に対して,「私の経験では」とか「以前扱った生徒がこうであるから」などの観点から解釈し,診断してしまうことがみられます。経験による判断の準拠枠は正しいことも多いでしょうが,時に,先入観や固定観念となって正しい生徒の理解をさまたげる原因ともなります 教師のまなこをくもらせる先入観や固定観念としては,次のようなものが考えられます。<光背効果> halo effect.たとえば成績のよい生徒は,学習以外の面でもよい生徒であると見てしまうこと。−生徒を多方面から注意深く見つめ,自からの内部にある光背効果をたちきる努力が必要でしょう。
<対比効果> まわりの生徒との対比で個人を評価的に見てしまうこと。(たとえば礼儀正しく万事控えめな生徒の中では,ほんの少しだけ活発に振舞っただけで粗野で無えんりょな生徒と見たり,クラスが変わったためにある生徒が急に目立つようになったり,逆に問題視されていたことが目立たなくなったりする)−劣等感をもつ生徒に,他と比較してこのような評価的きめつけをあからさまに口にすることは,思わぬ心の傷を相手に与えるものです。まわりにまどわされず,その生徒の独自性を冷静に理解してやることが大切です。
<初頭効果> 第一印象に左右され,なかなかイメージ・チェンジができないこと。−きょうの生徒をきょうの目で,つまりきのうの生徒の姿を払いのけて,現時点で見ていく努力が必要でしょう。
<寛容効果> 気にいった生徒の行動はおお目に見てしまうこと。いわゆる「えこひいき」。−このような「えこひいき」は,教師自身は気づきにくく,また他から指摘されるとつい感情的になりやすい傾向があるので注意すべきでしょう。
<ステレオタイプ的認知> いわゆる「レッテルをはる」ことで,内容を吟味することなく見出し的にきめつけてしまうこと。−「話にならない」という印象を生徒に与え,思わぬトラブルのもととなりやすいのでじゅうぶん気をつける必要があります。