福島県教育センター所報ふくしま No.44(S54/1979.12) -017/034page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

<随 想>

「し つ け」

事務部  高 原 光 雄

 最近,新聞紙上で,低年令層の,反社会的,非社会的行為が数多く報ぜられている。社会,学校,家庭環境の悪化の進行と無縁ではないと思われる。特に家庭環境−養育−における「しつけ」に,その根本的原因あり,と見て,その背景を追求してみたい。

 第一は現代社会の変化の激しさ,それに伴う,親の自信・権威の喪失である。
 敗戦によって,日本の価値体系は大きく転換し,それによって,家庭における「しつけ」のための規範は大きく崩れ,新旧の価値が錯綜(そう)し,親の権威はぐらついた。しかも,その後の,社会の構造的変化によっても「しつけ」の方向や規範は確立されていない。
 経済的豊かさはあっても,子供たちが,今後どのような社会に生きるかの確かな見通しすら立たないままに,余暇の増大,性の解放等,どれをとっても「しつけ」を困難にする条件は累積されている。
 他方,マスコミの商業主義によって,大人のそれとは異質の,子供文化が形成され,親の養育に対する自信をぐらつかせ,子に従属する「親」族を生んでいる。

 第二は,子供の扱いについての考え方の変化である。頭から子供を押えつけることは,封建的,非民主的なこととしてしりぞけられ,子供の気持を尊重する,話しあいの重視など,新教育や心理学的知識の普及による,伝統的子供観の受容余地喪失がそれである。

 第三は,家族構成の変化,つまり核家族化である。子供の数,平均1.7人は,家庭生活の一般的向上,余裕に結びつき,その分,親の目と手は,子供にむけられることになり,「しつけ」のタイプに変化が生じ,これが,過保護へとエスカレートしてくる。

 第四は,高学歴化の中での,いわゆる受験競走である。進学熱の高まりの中で,一体,何が「しつけ」にかかわる問題として起こりつつあるのか。
 親が,子をできるだけよい高校,大学へ,そして有利な就職へと望むのは,自然であり,又人情でもある。しかし,このことが,子供というものをどう変え,また,親をどう変えたかも考えてみる必要がある。常に,全ての子供が勉強を好む訳でもないし,誰もが有名校に進学できる訳でもない,という現実がそこにあるからである。
 勉強以外のことに熱中する子,進学を望まない子があって不思議ではない。そのことを,親が無視し,一方的な願望を子に実現しようとするとき,親は,一そう「しつけ」から隔たってゆく。手伝いその他の家庭協力を免除し,友達とのつきあい,遊びの機会も最小限にとどめさせ,ひたすら受験勉強への集中をねがって配慮をめぐらす。結果は,親自身,子供を恐れているようにさえ見えるようになる。落ちこぼれ,非行,家出,自殺……。親はいっそう心理的に追い込まれてゆく。

 実際,親に,何かの理由で,「出てゆけ」とどなられると簡単に出て行ってしまう。このような子どもの反応の仕方の一般化傾向は,子どもをめぐる諸条件の複合によって生まれるもので,一方的に親にのみその責めを帰することは出来ないが,その一端は,「しつけ」における権威の喪失,心理的操作,過保護,教科の成績のみを絶体視する,受験体制べったりの親の態度に求めなければならないと思う。
このような,不安傾向肥大の親の構えを,知的早熟,自我意識肥大の現代っ子は,敏感にとらえて,行動で,親の心理操作を開始する。親は益々,子どもをはれものにでもさわるように扱うことになる。
 それだけ「しつけ」の機能は低下しているに違いない。

 それでは,子供の方は,その分だけ,伸び伸び生活しているかというと,そうでもない。
 勿論,それには,遊び場が失なわれたり,道路は自動車の洪水,高度に専門分化した職業構造の中で,あらかじめ敷かれたレールに乗って生きてゆくしか方法がない子供たちの現状に,その多くの因を求めなければならないが,それでもなお,子供たちのうえに重くのしかかる,受験体制や,その他の環境悪化の波に,がっしりと立ちふさがる,たくましい「親」の欠如を見逃すわけにはゆかないだろう。

 今こそ,基本的な「しつけ」のために必要な,子供を叱れる親を回復し,それと同時に,子どもの心を傷つけることに対して敏感な親の心を求めて,その調和によってのみ現状改善は可能であると信ずる。


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育センターに帰属します。