福島県教育センター所報ふくしま No.46(S55/1980.6) -002/038page
特別寄稿
論 説
新教育課程実施上の留意点 郡山女子大学短期大学部教授 長谷川 寿郎
1. 新教育課程実施の意味するもの
初等教育資料の392号(昭和55年4月)の「これからの学校・学級経営の在り方を探る」という座談会記事を興味深く読んだが,今現場では新教育課程の実施に燃えているが,まだ変わり始めてきていない。そこがこれからの問題だし課題ではないかという気がする。という意味の発言が載っていた。
また,家庭と学校と社会との共同責任がないと,燃えていても何か次の燃料が補給されないということが出てくるんじゃないだろうかと思います。という別の人の発言もあった。
もちろん,これらの記事は,4月以前の座談会内容のものであろうが,今は,新教育課程は実施されている。課題でないかと言われていることにも,着実に現場は取り組んでいるし,共同責任の白覚と実践に向かっても,打つべき手を打ちつつあると信じたい。
筆者は,しかし,この燃え方を問題にしたい。これも初等教育資料の座談会記事であるが,(No 389,昭和55年1月)奥田真丈氏が「−今回の改訂は十年ごとのサイクルのひとつだという見方がある。しかし,まさに十年ごとになっているけれども,そうではなくて,やはり新教育に移ってからの三十年のものをここで一ぺんオーバーホールして,新しい装いをもって次のゼネレーションに向けてスタートしようという気持ちが根底に流れているんです。(中略)これをどんなに真剣に受けとめるかということがひとつの分かれ道になっていると思うんです。(下略)」という発言をして拾られる。燃えるというなら,こうした自覚に立って燃えてもらいたいと思うのである。
筆者は,昨年6月,所報No 41に,編集者からの要請もあって,「新教育課程の根底を問う」という小文を述べたのであったが,その中で,今次の新教育課程による学校教育の改善は,従前の改善の場合よりもいっそう深く,それは世界史的転換が想望されるべき史的境位に括いて,21世紀への国民教育を志向して行われるものでなければならないという意味で,吟味されなくてならないであろう。と書きしるした。さらに,世界史的転換の史的境位とは,近代の原理と見なされる近代ヨーロッパのヒューマニズムが,もはや人類の生存をみちびく原理ではあり得なく,新たな原理が求められなければならない人類史的危機状況である所以(ゆえん)を,近代史の流れを巨視的に辿って−それはまことに粗述に過ぎなかったが−述べた。そうして,このように破綻した近代のヒューマニズムを,真正なヒューマニズムに回復し,この真正なヒューマニズムを原理として,世界史の創造に努める方向こそ,われわれの方向であって,21世紀への国民教育を目ぎす新教育課程の根源的原理次元を,ここに深く白覚しなければならないであろうと主張した。
ところで,何故われわれが,このように新たな原理にもとづく世界史創造への教育に,それこそ先駆的に志向実践しなければならないのであるかについても,いささか触れたつもりである。すなわち,近代化路線の展開にあたって,欧米先進国を師として,師に勝る実績を成し遂げながら,近代の原理的破綻の実状についても,師と仰いだそれぞれを凌駕するにいたっていること。従って、新たな原理にもとづく世界史の創造を担う人間の育成は,われわれが,人類の未来のために率先して果たさなければならない責任でなければならないというのである。
かくして,我が国に拾ける教育の80年代の意味は,上述した教育への基盤形成のデケードでなければならないというところにあるとすべきであろう。新教育課程実施の根源的意味がここにある。
このように考えてくれば,われわれが新教育課程の実施に燃えるということに,次の燃料補給に不安であるなどと考える理由はないであろう。もちろん,今日の我が国の文明状況が,われわれの白覚と実践とに対して,強烈な負の牽引力を発揮するであろうから,なまなかの努力ではものにならない。覚悟の程が問われているのである。