福島県教育センター所報ふくしま No.46(S55/1980.6) -003/038page
文明状況にチャレンジするのであるから,ひとり学校教育によるのではなく,家庭と社会とにおける教育と確かな連携をしていかなければならないのは当然であるが,しかし,学校教育が中核.となるべきであり,学校の教師われわれが,十分な自覚と決意をもって,今次教育改善の深い意昧把握を家庭と社会とに求め続けなければならない。
ところで,ヒューマニズムと人間性のかかわりについて触れておくこととする。なぜなら,人間性豊かな児童牛、徒を育てるのが,新教育課程実施による教育のねらいの根本的なものだからである。詳論する紙幅はないが,お互い心得ていなければならないものとして,確かめておきたいと思う。
もともとヒューマニズムは,人間性を最も大一事にようする人間の牛、き方なのである。従ってその在り様(よう)が,人間性をどのように自覚するかによって変換する。ヒューマニズムは歴史的現象形式のものであるというボルノーの指摘に首肯することができよう。(ボルノー著「人間の節度と不遜」S88参照,邦訳,「現代における人間性の運命」,未来社刊,P.139)
一方人間性そのものは,人間における諸惟質というよりは,人間を真に人間たらしめる性能とすれば,超歴史的にかつ普遍的にあるのでなければならない。
人間性の受け止め方が,時代により立場によって,いろいろな強調点をもって言表されることがあり,それはそれなりに意味があるわけであるが,それにもかかわらず,単純な人間性(アインフアッハ)(これはボルノーのことばである,上掲書参照)が超歴史的普遍的に存件する。ボルノーは,このような人間性の本質的特徴として,穏やかさ(ミルデ),同情(ミットライド),寛容等(ドルドザームカイト)をあげている。)上掲書によって吟味されることを望む。)
筆者が真正ヒューマニズムと述べたものは,こうした人間'性に対するものでなければならないと考えている。なお筆者は,所報41号で,愛と美と良心とをあげておいた。御批判を請いたいと思う。
それはとにかく,さらにボルノーの論述を引用させてもらう(引用文は訳書による)。
「この人間性(単純な人間性−筆者注)は,まったく単純な(いわゆる無教養な)人問においても輝きうるし,学識のある者や教養のある者,あるいはそうでなくとも,特別の天賦の才能をもった人間にとっても,かれが再び単純になることを学んだ程度に応じて,それに到達できるのである。なぜなら,究極的なものは,つねに単純だからである。」と述べ,つづけて,「この意味で,生きた人間が一切の抽象的な理論と高適な理想以上に重んじられる場合に,また,人間が内心の粗暴さを抑制し,静かな自明性の中に自分の仲間のために尽くす心構えがある場合に,そして単純なものが再び単純に行われる場合に,人間性は存在し,人間の究極の完成が存在するのであって,」と主張する。そうしてつぎのように結ぶのである。「わたしは,つぎのシュヴァイツァーの肺臓をつく勧告ほど,すばらしい結語を知らない。『いかなる人間も,白分のおかれている状態において,真の人間性を人間に示そうと奮闘すること。人類の未来は,それにかかっているのである。』」
このことについて,くだくだしい解説は必要としないであろう。われわれは今,新教育課程の実施による教育を展開しているのであるが,その深い意味,その根源的な意味を照明していると言わなければならない。以上のような意味把握をふまえて,新教育課程を実施していく上で,お互いに心しなければならないと考えられるいくつかを,批判検討の資料としてあげてみたい。
2. 一般的に
(1)「初心忘れず。」ということ
1. 新教育課程の実施による教育のねらいは,「人間性豊かな児童牛徒」,「ゆとりと充実の学校生活」,「基礎的一基本的な内容」,「個性や能力に応じた教育」,「創意ある教育活動」等のことばに象徴されているわけであるが,教育課程の編成,その実施にかかわる実務の展開のうちに,教育精神の生き生きとした発動が次第に弱まっていってはならないということである。
生活時程とか時間割とか,時数計算とか,それらをなおぎりにしてよいわけではないが,それらはいずれも,教育活動の効果をたしかにするためのものである。ところが逆に,教育活動を形骸化しかねない作用に転じる拾それがあることに十分気を留めていなくてならないと思う。もともと教育課程というものは,発動されるべき教育精神の形相次元をもつ。この形相次元が硬化すれば,教育精神の発動そのものが精彩を欠き,衰弱し,形ばかりのものになりおおせるわけである。
そもそも新教育課程の実施による教育のねらいは,