福島県教育センター所報ふくしま No.46(S55/1980.6) -005/038page

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いが,後者については所報41号に述べた筆者の小文中の教育課程実施にこめる願いについて吟味願いたい。なお,前一者のうち学習の指導方法に関しては,3において,いささか言及することとする。

(2)学習指導要領総則の8の頁に十分留意しなければならない。いずれももっともなのであるが,特に学校生活全体における」言語環境を整えるという指摘については,教師自ら深く省みる必要があろう。何故教育課程実施上の配慮事項中第一に記載されたのであろうかを,教師自らを含めて深く考え,日々の実践をもって答えていかなければならない。

(3)新教育課程の実施は,全職員の共通理解を確かめ合いをがらすすめをければならない。共通理解が確かなものでなければ,モラールの高揚もありえないし,着実に実効をおきめることはできない、共通理解の場と方法とを十分工夫実行しなければならない。

(4)新教育課程の実施の具体については,それぞれの学校が創意を働かせ,自校の置かれている個性的状況内にあって,最も適切であるよう努力しているわけである。その情報をひろく交換し合ってよりよい展開をすすめる開かれたあり方が大事である。特に学校の置かれてある状況の類似した学校間を県内外を問わず視野に入れるべきであろう。この際,学校の置かれてある状況とは,自然的社会的な環境視点からだけでなく,環境内における児童生徒の学校生沽の視点を大事にして視取られるものというべきである。さて,以下に記すことは,老婆心ながら付け加えておこうとするものである。

(5)創意工一夫に努めるということが,新奇なあり方を求めてというふうになってはなるまい。奥田氏が,この三十年間の教育活動をオーバーホールしてかかるべきことを説いているのは重要である。今まで努力してきたことを一つ一つ改善の精神に照らして見直していく着実さが大切にされなくてはならない。


3. 各論的に

(1)ゆとりと充実
多くのことが言われているので,一つだけ強調しておきたい。それは,フイードバックが必要に応じて十分行われうる教育課程や指導計画でなければ,充実をもたらすことはできないということである。

(2)学校の教育目標について
このことも,各学校でよく吟味されていることは確かであるが,その学校の教育のそれぞれの沽動面に一貫浸透して具体化されなければならない。当然のことなのであるが,時がたつにつれてこの教育目標と実際の教育沽動とにへだたりを生じ,目標が名目化するおそれがある。このことを警戒しよう。

(3)基礎的基本的内容について
 学習指導要領は,このことに十分配慮して作成されたのであり,移行期中各校はまた十分吟味を重ねてきたはずである。それゆえこの頁についても一つのことを取り上げるだけにする。ある単位時間の指導に限定して考えた場合,そこにおいて取り扱われる内容について,何と何とはどうしても身につくようにしたい事柄を見きわめ,それを成就させるように工夫努力することである。

(4)授業について
 これは,2(1)3cの末尾に述べたことに係わるものである。新教育課程の実施による教育の実効を左右する重要を働きをするのが授業である(授業だけでないことは言うまでもないとしても)。
 多くの授業研究に参加して考えさせられることは,ひとりひとりをいかすというには,授業のあり方があまりにも直進的であり過ぎるということ。過程中に評価機能を発動させるのはきわめて望ましいのであるが,その結果負の状況があらわれた場合の措置については周到さを欠くということ。従って,充実した学習にならないおそれが多分にあることである。きらに,ひとりひとりに指導の手をのべるための指導形態の工夫,学習の場の設定の工夫等が遅れているように見受けられてならない。今後の実践課題と思うが,どうであろうか。

(5)創意ある教育活動について
 今次の改善はまさに新たな教育の創造であるのだから,各学校がそれぞれこのことについて十分に力を人れているのは当然そうあるべきである。しかし,ある特定の時問帯の教育活動に限られるものではないのであって,学校教育全休において創意ある活動が展開されるべきものであり,その一貫としてこの時間帯の教育的配慮に創意を働かせるべきであることを忘れてはならないであろう。
 紙幅の都合で以上にとどめる。新教育課程の実施による教'育が健全に展開されることを祈る。
      (1980・5・20)


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