福島県教育センター所報ふくしま No.47(S55/1980.8) -024/034page
随想
「ゆ と り」について
科学技術教育部 引 地 善 美
今回の学習指導要領改訂の大きなねらいに「ゆとりある,しかも充実した学校生活が送られるようにすること。」があげられた。それ以来,各方面において「ゆとり」について見なおされている。
「ゆとり」について,広辞苑によると「余裕のあること,窮屈でないこと」とあり,余裕は「余りがあって豊かなこと,ゆとりがあること」である。つまり「ゆとり」と「余裕」とは同意語として取り扱われている。
それで,同意語辞典を見ると,ゆとり(余裕)は「財政(日程,部屋の面積,かれの態度)にゆとり(余裕)がある。」のように,たいていの文脈でゆとりと余裕はおきかえることができ,ニュアンスの違いもあまりない。しいていえば,余裕の方は客観的なのかも知れない。つまり 『余裕のある生活』がやや経済的な面に,『ゆとりのある生活』が生活態度の面に重点をおいているかも知れない。」とあることから,ゆとりのもつ意味(ニュアンス)が大まかにつかめるような気がする。
そこで「ゆとり」について,身近な日常の生活から考えてみたい。先ず食事だが,昔から「腹八分目」という言葉は,健康管理上必要なことである。これは,ある程度胃にゆとりがあれば,消化,吸収がよく健康を保持することができるからである。
また,衣服のゆとりは,活動上,衛生上,外観上から大切かと思う。特に運動着,作業衣などは体の運動,作業に対応するだけのゆとりがないと,布地が破れたり,縫い目が切れたりする。
住について,EC(欧州共同体)の秘密文書に日 本人のことを「うさぎ小屋に住む働き中毒」と言っ ていることに立腹している人もいるが,こと「うさ ぎ小屋」に関するかぎり間違っていないと,日本の 住宅研究者は言い続けているようである。住宅は生 活の器であり,「人は住まいをつくり,住まいは人 をつくる」とされている。経済的,その他の事情で 最小限の家になろうとも「かには甲羅に似せて穴を 掘る。」といわれている。せめて人間らしく住めるだ けの住空間を確保するようにしたいものである。
最後に「働き中毒」だが,アメリカ人は日本人の観光客は大変歓迎するが,日本人がアメリカに定住して商売をすることは心よしとしない。それは,朝から晩までよく働き財の蓄積のみを考え,生活にうるおいをもたないのが大きな理由であることを,かつて海外教育事情視察に参加したおり,ガイドが声を高くして説明したことを思いだされてならない。
また逆に仕事がなく,毎日暇すぎると,生きる喜びも張り合いもなくなる。「小人閑居して不善をなす。」の諺(ことわざ)のようにあまりゆとりがありすぎて,無目的になると「ぼんやり」し活力を失なう。いずれにしても,適度のゆとりが大切である。
ところで,学校教育に適した「ゆとり」とは何だ ろうか。牧 昌見氏(国立教育研究所)は「ゆとり の落し穴」(時事通信内外出版から)として次の三 つをあげている。
(1)ゆとりは目的ではない。目的はあくまで豊か な人間性をつくることにあって,ゆとりは手段 である。
(2)ゆとりは部分ではない。「ゆとりの時間だけ がゆとりと考えがちだが,ゆとりは学校全体に かかわるものである。
(3)ゆとりは量として(物理的)考えている人が 多いが,ゆとりは,教師と教材と生徒の三者の 関係できまるのであり,ゆとりは質である。教 師がゆとりをもって教え,生徒はゆとりをもっ て学ぶところに本旨がある。
新堀通也氏(広島大教授)は,学校におけるゆとりの問題として,子供の生活環境が漸次狭小化して活動範囲のゆとりが縮小されてはいないか,また教師自身に,子供のゆとりをどう活用するかの考え方や実践するだけのゆとりがあるだろうか?など,いろいろのとらえ方,考え方があるが,いずれにしろ教育の効果は,じっくり気長に見守っていきたい。