福島県教育センター所報ふくしま No.51(S56/1981.6) -003/042page
これは日常生活の中で、知らず知らずのうちに成立する学習である。このことに対して、教育的な配慮はどうあるべきかは後に言及することとする。
2 第二の場合は、学習する個人にとっては、一定の目標があり、学習しようとする意図がもたれていて、しかも、それはあくまで自発的であるという場合である。これを一応、「自発的・意図的学習」とよんでおくこととする。
これは、本来、人間の学習の中心部分を形づくるものでなければならない。
この種の学習の中には、学習する本人には、それが学習であるという意識は無いかも知れないが、強い興味によって、他から強制されることなく、取り組むという場合をもふくむ。とにかく、学習者自身の自我がはじめから関与しているのであって、それゆえ、結果としては、最も内実のある学習が期待されるところのものである。
3 第三は、学校における教育課程による学習とか、それに準ずるような学習の場合である。
これは、学習すぺきことがらが、すでにきめられている場合であって、このきめられている内容を学習しなけれぱならないとされるのである。それゆえ、これを「課せられた学習」と一応名づけることとする。
ところで、山下氏は、この課せられた学習について、その状況の特質はいくつも指摘できるが、その2〜3にふれる、として、問題点をあげている。それらは、とくに学校における学習指導上十分留意しなければならないものであるので、山下氏の文章をそのまま引用することにする。
なるほど、これらの諸点は、十分耳をかたむけなければならないし、指導上徹庭的に配慮されなけれぱならない。しかしながら、何故に「課せられた学習」なる状況がありうるのかを問うことが必要であり、その事情にもとづきつつ、氏の指摘するところに配意するのでなけれぱなるまい。
第一は、学習すぺき内容が、学習する者の意向、意欲とは独立にあらかじめ決められているということ。これはいわゆる「教材」という形ですでに用意されているのであり、その教材は、これを用意した側では、意味あるものとして一定の連関のもとに配列されていると考えられているが、少なくとも学習者にとっては、日々の生活現実とはほとんどつながりをもたないところに問題がある。
第二に、この学習は、教師という教えることを仕事にしている人間の介在によって提示されてくる。そこから学習は、つねに、教えるものとしての教師との人間関係に媒介され、それにより、良くも悪くも大きく影響を受けることになる。
第三に、学習の場にはいっていくこと自体が、学習者の自発的に求めるところとは独立に決められているのであり、学習者は、ある一定の時間好むと好まざるとにかかわらず、課せられた学習に取り組むことを強制されている。
第四に、(中略)現代の学校では、上級の学年、学校へ進むぼど、学習内容は、言語的学習という性格が強くなる。言語そのもののレベルの理解と、言語によってさし示された事柄の理解、習得が要求されているわけであるが、現代の学校教育の在り方は、もっぱら、言語レベルの学習に終始している。(下略)。
もともと学習という営みは、人間にとってよりよい人間になるためのものである。その究極の目あては人格の完成であり、そのためには人格の資質内容の全面的調和的発違がはかられなければならない。学習は、このことを指向して営まれなければならないわけであるが、学習者の自発的意図的学習のみで十分ではあり得ないであろう。ここに、「課せられた学習」の必要理由があるとしなければならない。
問題は、この学習状況を、どのようにして、学習者の自発的意図的学習状況たらしめうるかということである。これは、学校教育における学習指導上根本的な問題である。今日学校教育の現場でさまざまに工夫され苦心されていることは、お互い承知しているところである。ただこの苦心するところを実りあるものにするための戒心の視点として、山下氏の指摘するところを十分におさえ、それらの問題を解決し乗りこえるぺきなのである。われわれの用意する教材は学習者の生活現実とはつながっていないのか。学習は単に強制されてだけあるのか。言語レベルの学習に終始しているのか。むしろ、山下氏の指摘に反論的に対処しつつ、学習者の学習状況に悪影響を及ぼしている自分でなかろうかと反省すること自戒することが肝要であるだろう。
(3) 人間における学習という視座から
上述してきたところは、人間における学習の間題