福島県教育センター所報ふくしま No.51(S56/1981.6) -004/042page

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であって、あらためて述ぺるまでもないと見られるであろうが、あえて述ぺる理由を2つだけあげる。
 1 「人間が何ものであれ、人間はやはり動物である。そして、われわれは、人間が動物と同じように学習するのではないと信じうるアプリオリな理由は何ら持たないのである。動物の学習の研究者たちの貢献するものを無視することは、精神主義かあるいはコンピューター・トランジスターの迷路にさまようことであろう。」という主張に耳をかたむけながら、しかし、人間にふさわしい学習状況をもとめ、その実現につとむぺきであるということである。
 2 学習の過程をあたかも機械操作になぞらえられるような取り扱いをする状況があって、その背景に人間を結局は機械のようにみる人間観があるのではないかというおそれをいだくものであるということである。
 人間にふさわしい学習は、その実質的な学習の成立にかかわって、つぎのような要件が少なくとも充たされるべきでないかと思う。すなわち、
a.学習の意味の自覚(学習の目的、価値、責任の自覚)にもとづいた主体的な学習である。b.計画をたて、既知を土台に未知をひらいていく学習である。c.自己の学習を支えるものと対話し、感謝しつつすすめる(師に対し、友人に対し、教材・教具に対してである)学習である。d.フェリビリズム(fallibilism)に立つ学習である。(あやまりはないかと念を押し、あやまりやつまずきから学び、真実を謙虚にしかも厳しく探究する能動的な心性の発動する学習の意である。)e.自己の成長をたしかめつつ、さらにより高く人間として育つことを成しとげる学習である。f.良心のみちぴきに従う学習であり、その明晰性を増す学習である。
 実に、人間における学習の在り方は、単に知識、技能、態度等を身につけるというにつきないのである。人間にふさわしい学習のあり方であるように、学習指導に当たっては、つねに深く配慮されていなければならないと思う。

2.学習指導について
 学習指導は、実質的学習の成立への指導である。多くの論考が提出されているがそれらの中で、この小論が意味を持ちうるかどうかはとにかくとして、つぎのように考察をすすめていくこととする。
 (1)学習についての考察に含有されている問に答えることから
 1 学習という営みがあっても必ずしも実質的な学習が成立するとは限らないのは、結局、学習事項について「わかる」ことができなかったのである。指導者は、「わかる」学習指導の工夫をしなければならない。このことについては、(2)を参照されたい。
 2  1 の(1)Bとβとは合わせて考察してよいであろう。これは 1 の(2)1の問題である。教育的に配慮しなけれぱならないことは、生活環境をととのえることである。とりわけて、おとな達の日常生活行動がよいモデルであることである。
 新教育課程実施上の配慮事項の第一に、言語環境の整備があげられている。ととのえられた言語環境の中で、児童生徒は非意図的にも適正な言語活動の資質を獲得し得るであろう。このような教育的配慮は、生活の指導としての配慮であり、それはまた非意図的学習に対する学習指導としての配慮ともいいうるであろう。
 3  1 の(1)αについては、いろいろな条件があげられるであろうが、中核となることは、学習者が、学習する内容を「ホントにわかる」ということであろう。このことについては、上記1の問題と合わせて考察することとする。((2)において)
 4 課せられた学習の場合は、その内容が自己の生きていく上に大事な意味をもつという自覚に導きつつ、学習者の理解が成立するかれの経験地平に対する洞察と、学習者の独自の取り組みについての暖かい理解に基づき、知的好奇心に訴える教材提示を工夫し、追究していく学習の過程の活動を援助することによって、いうところの自発的・意図的学習と同様の心性による学習を展開させうるであろう。
 (2)「わかる」ということへの導き
 学習指導は、実質的学習の成立を成就させる教育方法の機能であるが、それは、学習者が「わかる」ことを正直に成就しうるよう援助の手をつくすことにぽかならない。それでは、「わかる」とは何か。
 1 「わかる」ということは、もの、こと、状況など。およそわれわれの意識の対象となっているものの実態、真相、意味、あるいは「ことわり」等をとらえることであり、かくして自己を自覚することであるとされる。とらえるということは、この場合、とらえようとしているものの構造が明らかにされ、既にとらえているものを活用して、自己の経験体系


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