福島県教育センター所報ふくしま No.52(S56/1981.8) -025/034page

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<随   想>

恩 師 の 魅 力

科学技術教育部  小荒井 要

過日,20年ぶりで尊敬していたある恩師に合うことができた。

もう,70才をこえて話しの歯切れも鈍っていて決して雄弁ではなかったが,むかし以上に豊かな個性と,気品と情熱に溢れていて,人間としての魅力を感じさせ,畏敬の念でいっぱいであった。

人間の魅力は,出そうと思ってもそう出せるものではない。自然に滲(にじ)み出るものである。無理につくろうとすれば,気ざに嫌らしく見えるものである。また,決して長続きするものでもない。

人間としての,ほんとうの魅力は「吸収されつくした教養」とか「試錬に耐え抜いた人生観」から滲(にじ)み出てくる感覚とか個性にあるように思う。

そういう意味では,ある程度年輪を数えなければ,人間としての魅力は表れないのかも知れない。

 

戦後,価値観の転倒に,人が皆,葛藤の休まる日のなかったころ,師は気ままに訪れた私に声を震わせ「情熱」を説き,一つの音楽(レコード)を聴かしてくれたことがある。

一曲終わるまでに,数々のSP板をかけ継ぎして小一時間程かかったと思う。音楽を知らない当時の私にとっては,大変退屈で苦痛な時間であったが,終わってから静かに目を開いて唯(ただ)ひとこと,「よかったね。」と聞かされて,戦前,戦中,戦後を通した教育者としての苦悶を知らされた思いで,慄然(りつぜん)とした。

師もまた,非常な時代の流れと変転する想世界の決定的な試錬に耐え,日々生きる理想を真摯(しんし)に思索してあられたように思う。その帰結として,謙虚に,執拗(しつよう)に「情熱」を説いてくれたものと思う。

 

師は,必要以上に知識を語ることがない。もち論,誇示することは一切しない。それでいて専門的知識は無論のこと,実に深く,広い知識を持っている。

そして,それが十分に消化吸収されていて,その自信が,一つの気品とか,風格となって微妙に表れてくるのであろうか。

言葉づかい,身なり,態度に,いや味がまったくないということである。多くの人が,ためらう深刻な話も何げなく,さらりと言ってのける。それでいて,不仁,不浄とみれば敢然と反発してくる。実に豊かな個性と洗錬された感覚が充溢(じゅういつ)している。

いま,私は気負う考えはまったくないが,唯,近代の社会は体制の如何を問わず「人間性」と「没主観性」の要求が交錯している。その中で真に「魅力ある人間像」について素直に自分自身に問いかけている。「魅力ある教師像」について問いかけている。

私から見た師は,魅力いっぱいの「良き師」である。「好きな先生」とは次元の高さを異にする。本質を異にする。………師は私にとって「理想の教師像」であったのかも知れない。

無論,私が師の巨峯に達することは,終生,彼岸の希(ねが)いではあるが。


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