福島県教育センター所報ふくしま No.54(S56/1981.12) -001/034page
巻頭言
豊かな心
科学技術教育部長 渡辺 博
教育課程の基準改善のねらいに「人間性豊かな児童生徒の育成」がうたわれ,学習指導要領の基本方針が設定されてから,「豊かな人間性」とか「豊かな心を育てる」という言葉があちこちで使われている。
人格の完成をめざす教育の場合,こうしたねらいが教育の根本でなければならないことはいうまでもないし,家庭や学校でも,子どもの心を豊かに育てる努力が意識的になされなければならない。
しかし,一般には,この言葉があまりに抽象的,概念的であるがために,ややもすると言葉の美しさに酔い,具体的にどうすることかがわからなくて,単なるお題目になりかねない心配がある。
そこで,「豊かな心」とはどんな心なのかということから考えてみた。まず,この言葉の対立語である「心の貧しさ」という言葉から考えてみると,人間の心が貧しいということは,一般に物の考え方の幅が狭くひとりよがりで自己の利益のみを追い求め,情緒に欠けて人から愛されないような人間が考えられる。一つには,自分のことばかりしか考えない自己中心の人間ということである。他人の喜びをねたみ,悲しみや苦しみを理解せず,他人の立場になって考える思いやりもなく自分だけがよければよいといった気持ちの人は,どうしても目先の利益ばかりを考えて打算的な生き方しかできないのである。また,考え方が常に自己中心的であるために偏見に満ちた判断しかできず,他人の共感が得られなければ他人が悪いと思いこみ,いっそう意固地になり偏狭になって孤独化していく人である。二つには,情動の刺戟(げき)をコントロールする力のない人である。不快な刺戟が外部から与えられたとき,すぐカッとなったり怒ったり泣き狂ったりするのでなく,それを適当に調節したり気分の転換をはかったりするゆとりのない人は心の貧しい人と言わなければならない。三つには,物質的に豊かさにおごる心の持ち主ということである。生活の豊かさは,たしかにその人をおおらかにし物事にこだわらないすなおな心を生み出すが,その恵まれた物質環境におごる気持ちが起こると五官に快感を味わうことが幸福な生活だと思いこみ,それを味わえない貧しい人に対するさげすみの心が生ずる。しかも,感覚の喜びはその都度起きては消えるものであるから,次々とその快さを追い求め,はてしなく欲望がふくらんでまだまだ富を蓄積せねばとあくせくした気持ちになるものである。四つには,「貧しい人」とは美しいものに対するあこがれがなく,実利性や合理性を尊重するあまりに日本の古い文化や創造された芸術の美しさに気付かない,ひいては,自然を超越した偉大な存在に対するけいけんな心を否定する人だと言うことができるのではないかと思う。
このように「心の貧しい人」を具体的に考えてくると,その裏がえしとして「豊かな心」を持つ人もおのずと明らかになってくる。まとめてみると,○人を愛する心。○ゆとりのある心。○想像しようとする心。○感動する心。○美しさを感ずる心。ということになる。
この「豊かな心」を子どもに与えるために,教育活動のすべてにわたり全教職員が総力をあげてとりくむことが本当の教育であると思う。もちろん,教育は学校だけがいくらよい方法だと信ずる実践を続けても,家庭や社会の意識がそれを理解しなければ効果があがるものではない。一本の苗木をすくすくと大木に育てるために太陽の光をあて,強い風から守ってやるのが家庭のつとめであり,よい肥料を与え,消毒をし,徒長した枝葉を切って形を整えるのが教師の役目だと考え,家庭と学校が常に接触を保ちながら,一緒になって一本の木を育てるのだという意識がなくては「豊かな心」の人間は育たないのではないかと思うのである。
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