福島県教育センター所報ふくしま No.56(S57/1982.6) -002/042page
特別寄稿
論説 よい教師の条件
郡山女子大学短期大学部教授 長谷川 寿郎
はじめに
この小論では,教師一般についてではなくて,学校の教師を念頭においていくことにする。
もちろん,幼稚園から大学まで,それぞれの学校には,それぞれの学校の特質に応じて,よい教師の条件が考えられるであろう。そして,それはきわめて大事なことであるが,今は,通じて考えられることがらに限ってみようと思う。いわば,そこから発して,各学校の特質に応じた条件をもとめていく基盤ともなるべきものと考えてみようというわけである。
ところで,学校の教師は,だれでも,よい教師でありたいと思っているに相違ない。よい教師などでなくともよいとしているのなら,そういう教師の下で学習している子どもたちは,全く不仕合せというより他にない。ただ,よい教師になりたい,よい教師でありたいと念願していても,なかなかよい教師になれないのである。筆者のごときも,学校の教師に関わって半世紀以上であるのに,よい教師の条件から見ると,はなはだゆきとどかない。心中まことに忸怩(じ<じ)たる思いである。この小論は,まさしく自責と自誡の念をもって綴らざるを得ない。さて,何故あらためてよい教師の条件が問われるのであろうか。
今日教育の荒廃,学校不信,教師不信の声が高まって来ている。よい教師の存在が,この問題解決の重要不可欠の条件の一つであることはいうまでもないであろう。さらに,教育課程を改善して学校教育の充実進展を期しているが,その成否は,教師の識見力量によることまことに大であること。これまたいうまでもない。しかも,今次の改善の成否は,来るべき21世紀におけるわが日本民族の命運をトするに足る程のものであると考えられるのである。よい教師の条件をみたす教師の存在が求められるのは当然といわなければならない。
なお,末尾に引用文献を一括記したが,ともに自らを深めるよすがにしていただけたらと思う。
I. よい教師の条件
1. 授業がうまいこと
三好京三氏が,「いい先生見つけた」という著書のあとがきで,こう書いている。「わたしの考えているいい先生とは何か。それはこの本にあげた12人の先生方の実践をお読みいただけばわかることだが,一つだけ絶対にはずせない要素は,
一授業がうまいこと一
である。教師は何によって子どもを望ましい方向に変えて行くかと言えば,子どもとの全部の学校生活と,少しの校外生活によってである。その学校生活の大部分をしめるのが授業なのだ。これがへただったらお話にならない。だからすべての教師は授業がうまくなるための研究をおこたらないのである。テレビドラマにいろいろおもしろいタイプの教師が登場し,視聴者にもてはやされているのも,教育に対する国民の関心の高まりのあらわれであるが,あの教師たちが,もし授業がへただったら,わたしは教師として認めるわけには行かない。子どもたちに,その子どもなりの学力を保障するのが教師の最も重要な任務の一つである。そしてそれは授業を通してなされるのだ。」(注1) 少々長い引用になったが,あえて引用した意は容易にくみとっていただけるものと思う。
もちろん,子どもを望ましい方向に成長させるのは授業によるだけではない。学力をその子なりに保障するのも単に授業によるだけではない。このようなことは教師は誰もが先刻承知のところであろう。しかし,だからと言って,授業がうまいなどどうでもよいとは決してならない。授業がうまいということは,教師の本領とかたちづくる重要な条件として十分重視されなければならない。このことに異論はないはずである。
それでは,授業がうまいとはどういうことであるか。