福島県教育センター所報ふくしま No.56(S57/1982.6) -003/042page
(1) どの子どもも積極的に生き生きと学習にとりくんでいる。
(2) ささえ合い,はげまし合い,つまずきや失敗をいかしながら,目あてに向かって学習をすすめる。
(3) 子どもは,自分で考え工夫し,また,考え合い工夫し合って,自分の手で,自分たちの手で解決しようと努力している。
(4) 遅速はあっても授業の目あてに到達することができる。また,当面しては,それができないとしても,どの子どももやる気をおとしていない。こうして学力がその子なりに高まっていく状況が見えてくる。
(5) 教師は,子どもたちの努力の方向が目あてからはずれないようにリードしつつ,つまずきや失敗のいかし方を援助し,困難にたじろぐのをはげまし,それをのりこえるヒントを与え,こうして,子どもが自力で目あてに到達するようにささえてやっている。
このような授業状況である授業を展開しうる教師なら,授業がうまいと言ってもよいのではなかろうか。
さて,このような授業を実現できるためには,教師は,
(1)授業というものは,子どもが自らの学習を現実に成就するのをささえ,はげまし,なしとげさせるいとなみなのだという授業観に立つであろう。しかし,教師が教えなければならないものは,積極的にしかも確実に教えなければならない。
(2)教材に精通しており,授業の目あてに到達させるために,それぞれの子どもに応じて,柔軟な教材の取り扱いができる力量がある。
(3)ひとりひとりの子どもについて十分な理解をもち,それぞれを援助する効果的な手をうつことができる。
(4)子どもを集中させ,熱中させる演技力が身についている。(注2)
(5)ユーモアがあって,心をくつろがせ,ゆとりをとりもどさせ,やる気をささえることができる。
(6)日頃の学級づくりがゆきとどいているので,考え合い,ささえ合いがよくいく。
(7)学習の仕方の学習がたえず配慮され,子どもの身につくようにみちびかれている。
(8)年齢にかかわりなく,若々しい情熱のある人柄で,健康である。
こうした条件をみたしているし,みたすぺくつとめていると見ることのできる存在でなければなるまい。
ところで,授業が型どおりにそつなくすすめられ,板書なども整然としていて,一応のまとめができ,次回への手くばりもほどこされたとしたら,見た目には授業はうまくいったとうつるかも知れない。だが,数人のよく発言する子どもを中心にすすめられ,板書なども,あらかじめ用意されたものを貼付したにすぎなく,まとめも二三の子どもの発言や教師だけの発言で行われたというだけで,上述した諸条件がよくみたされている,またはみたされる方向であるのでなかったら,授業がうまく行われたとはいわれない。じつは,授業がうまいとは,見た目のカッコよさではなく,授業の中で発揮されるさまざまなテクニークの巧妙さにつきるものでもない。教師の人格の全体のはたらきによってなされるはたらきかけとそれに呼応する子どもたちの生き生きとした活動による上述した諸条件の充足していく相に名づけけられるぺきものであると考える。
蛇足ながら,よい授業と授業がうまいとのかかわりにふれておきたい。
よい授業を実現できることが,授業がうまいということである。よい授業とは,上述したそれぞれの条件がみたされている授業に他ならないというわけである。そして,見た目に授業がうまいようであっても,ほんとうによい授業を展開したことにはならない場合があるという次第について心しなければならないと思う。
2. ひとりひとりの子どもに効カ感を育てることができること (注3)
どの子にもその子なりに効力感をもたせることができ,それがしだいにたしかなものになるようにささえ,はげます教師はよい教師である。 効力感については,波多野誼余夫氏等が「自分が努力すれば,環境や自分自身に好ましい変化を生じさせうる,という見直しや自信をもち,しかも生き生きと環境に働きかけ,充実した生活を送っている状態(にともなう感情)であると定義づけている。
(カッコ内は筆者の加筆) どの子もこうした状況にあるようにみちびくのが教師のつとめであろう。とくに,出来ない子だと自分でおもいこんでいる子に,自分だってやれるという気持をおこさせることが大事であり,いわゆる出