福島県教育センター所報ふくしま No.57(S57/1982.8) -024/038page

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アイデア紹介

自作スライドを使った地方史の教材化

相馬郡新地町立尚英中学校教諭  草野 博夫

1 はじめに

 新しい学習指導要領「歴史的分野」の目標(3)に,「……… 現在に伝わる文化遺産をその時代や地域との関連において理解させ,それを愛護し尊重する態度を育てる」とあり,更に,内容の取扱い(3)では郷土の史跡その他の文化財を見学・調査させて,我が国の歴史の発展を具体的に把握させるとともに………。」と,地方史の学習を取り入れて日本の歴史の発展を具体的に理解させることが従前に増して強調されている。また,県教育委員会の57年度「学校教育指導の重点(社会科)」でも(3)として「身近な社会的事象の教材化を工夫し,生徒の興味,関心を喚起するような教材構成に努め」としている。
これは従来ともすると,中央や政権所在地あるいは政治を中心とする歴史的事象の学習になりがちであった歴史学習を改め,身近な地域に生きてきた人々の具体的な生活の展開をみることによって,生徒の現実の生活から時間的,空間的に隔たっていることへの抵抗をなくし,歴史を身近で具体的なものとしてとらえさせるためと理解される。
  この地方史学習で最も有効な方法は遺跡・遺物その他の文化財を現場学習することであろうが,その実行はなかなか至難のことである。
 そこで私は,生徒にとって身近にある史跡や文化財をスライドに撮り,指導過程への位置づけを考慮しながら解説書を作って,いくつかの授業実践を行った。

〔実践例(1)〕

  学習指導要領(1)文明のおこりと日本,イ「縄文文化と弥生文化を扱い,当時の人々の生活のありさまを理解させる」 ここでは縄文文化と弥生文化を中心に扱うようになるが,その際当町内にある新地貝塚と三貫地貝塚の遺跡や遺物を写したスライドを使って,貝塚のようすや縄文式土器,当時の人々の生活文化を理解させるとともに,地域の遺跡・遺物に関心をもたせることをねらいとした授業を組み立てた。
 新地貝塚は,縄文時代の中期から晩期にかけての内湾性貝塚で,鹿狼山(標高430m)の麓から東方にのびる丘陵の先端,標高20m余の台地にあり海岸まで直線にして約2kmの距離である。
 享保4年(1719年)に仙台藩の儒学者,佐久間洞厳が「奥羽観蹟聞老志」に“昔,鹿狼山に手の長い神が住み,その長い手を海までのばして貝を取って食べ,殻を捨てた所が貝塚になった”という伝説を紹介していることからもわかる通り,地元の人々には早くから広く知られていたところである。この伝説的な解釈に科学的なメスが入ったのは,日本の考古学研究がその緒についてまもない明治23年(1890年)のことである。その後大正13年((1924年)に山内清男氏ら東大人類学教室によって本格的な学役調査が行われた。その結果,磨消縄文に瘤つきが特徴の注口土器が多数出土し,新地式と名づけられて東北南部後期末の標式土器となっている。
 また,この貝塚からの出土品の種類も多く,乳房のある土偶や注口土器・波状方型口縁の浅鉢・壷型土器・打製石器・磨製石斧・石刀・無茎石族・有茎石族・石匙・土錘,平玉・丸玉・うす玉などの装身具等豊富で,当時の人々の生活のありさまをおよそ推測することができる。これらの出土品は,町の教育委員会や貝塚近くの目黒淑元氏が所蔵しており,これらの遺跡・遺物をスライドに撮って,縄文人の生活の営みを身近なものとして理解させるために活用した。

〔実践例(2)〕

  学習指導要領(3)武家政治の展開と庶民生活の向上,ウ ………… 応仁の乱後,各地に戦国大名が台頭してきたことに着目させる。 ここでは,応仁の乱を境に戦国大名が台頭し戦国時代へと世の中が移っていった時代の流れをとらえさせることなどが学習の中心となろう。
 新地方部は,南北朝時代は北畠顕家の配下である黒木氏によって治められていたが,天文12年(1543年)相馬顕胤によって滅ぼされ,以後相馬領となった。「東奥中村記」によると『谷地小屋をば掃き捨てられる,又,新地の山に城を構へ門馬雅楽介を城代に差置る,今の古城是れ雅楽介一両年居住し病死す(中略)中村の介添たりし泉田甲斐を新地の城代に移されたり 』とあるのでやがて相馬盛胤 義胤の代になってから,この新地の中心集落である町の北西約1kmの丘陵上に,新地城(蓑首城)を造


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