福島県教育センター所報ふくしま No.57(S57/1982.8) -025/038page

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り,この地を支配するとともに伊達氏に備えての藩境防備の前線基地としたものと考えられる。
 この新地域跡は現在でもほとんど元のままの状態で残っており,本丸と考えられる所は,東西約55m,南北約60mの台地状をなしている。本丸の周囲には,幅約8〜10mの空濠が残っており,さらに二の丸,三の丸を囲んで外濠が見られる。要所には枡形状土塁を築く輪郭式山城で,戦国特有の風格を残している。
 やがてこの新地城も駒ケ嶺城とともに宇多北部支配の拠点であったが,天正17年(1589年)相馬義胤が,遠く,田村領に出陣中の留守を巧妙についた伊達政宗によって攻め落とされ,宇多郡の内,駒ケ嶺,谷地小屋,杉目,小川,大戸浜,今泉,福田,将木崎,真弓の9か村(現在の新地町全部)総石高5,582石を失うのである。義胤は再三の奪回を計るがついにならず,その後豊臣秀吉の私戦禁止令により,相馬顕胤が天文11年(1542年)伊達晴宗と開戦以来,実に47年間,30余回にもおよぶ伊達氏と相馬氏との戦いは終わり,秀吉の奥州仕置によって当地は伊達領となって以後明治維新まで続くのである。
 このような地方の戦国乱世を織田信長や豊臣秀吉の動きとの関連で地域の城跡や古戦場を写したスライドを入れながら授業を展開した。

〔実践例(3)〕

  学習指導要領(7)明治維新 ア「………開国から維新までの経過のあらましを理解させる。」 ここでは,開国から維新までの経過のあらましを見ていくことがねらいになるが,戊辰戦争の際,浜通り最大の激戦地となった「駒ケ嶺口の戦い」の古戦場でもあり,伊達48舘のひとつでもあった駒ケ嶺城(臥牛城)跡も授業に組み入れて,戊辰戦争の経過のあらましを把握させた。
 「駒ケ嶺戊辰戦争史」によると,『大砲,小銃乱発し,弾丸雨の如く注ぎ,砲声天地に轟き,閧声山野に震う』と記されている。この戦いは慶応4年(1868年)8月7日,明治となる1ヶ月前のことである。官軍側は,奥羽越列藩同盟に属しながら官軍に寝返った相馬藩士約2,500名をはじめ,安芸,広島,筑前,黒田藩など約4,500名。仙台藩は約5,000名だったといわれている。10日ごろまでは一進一退を続けていたが,官軍には援軍が続々と到着し,仙台藩は死力を尽して応戦したが,やがて駒ヶ嶺城は戦火に包まれ11日には陥落したのである。現在,この城跡には,往時を忍ぶ戦死塚や四百数十名の名が刻まれた慰霊碑が建っている。会津戦争とともにあまり深入りはできなかったが,スライドを通して,倒幕派が武力で旧幕府勢力を制圧していった経過を身近な地域の具体事象との関連で把握させることができた。

〔実践例(4)〕

  学習指導要領(7)明治維新 イ「………学制の頒布,徴兵令の公布,地租改正などの諸改革によって……。」 ここでは,明治新政府が近代国家・社会の基礎づくりのために,諸改革を進めていったことを理解させることになるが,明治5年8月に「必ず邑に不学の戸なく,家に不学の人なからしめん事を期す」という学制が頒布される3ヶ月前,旧仙台藩士の目黒重真が有志と計り,明治の新しい時代を迎え「これからは,教育が最も大事である。」との考えに立ち,旧仙台藩学問所養賢堂の教授の氏家晋をまねき観海堂を設立した。やがて観海堂は,学制頒布の翌年には谷地小屋小学校と改組されたが,現在でも教室として使用された質素な板ばりの部屋が当時のまま残っている。
 この当町にある観海堂を取り上げることによって我が国の教育制度を身近なものとして発展的に把握させることができた。

2 反省

 その他町内には,古墳や庚申塔,旧陸前浜街道などたくさんの文化財があるが,主な実践例を述べたに過ぎない。ささやかな実践ではあるが,生徒には自分たちが生活している身近な地域で,過ぎ去ったある時代に先人たちがどのような生活をし,文化をつくり出したか,そして,その向上のためにどのような努力をしたか,更にそうした生活や文化が現在の自分たちの生活とどうつながっているかを中央史との関連で理解させることができた。また,歴史の発展を抽象的なものとしてではなく,生き生きと具体的に,しかも身近なものとして把握させることができたように思う。しかし,まだ指導過程における地方史教材の位置づけ方に難点があったり,時間が長くかかったりしてこれが最善だと確信をもって授業をやれるまでに至っていない。今後とも一層の考察と試行を積んでいかなければならないと考えている。


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