福島県教育センター所報ふくしま No.59(S57/1982.12) -001/038page

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巻 頭 言

個を生かす教師の態度

 

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科学技術教育部長  大 越 勝 忠

先日,ある学校で理科の実験の授業をみせてもらう機会があった。授業は指導案にそってすんなりとすすんで終わったが,授業後の生徒達の反応はとなると,時間がきて授業が終わっただけという,何か満ちたりない感じを否定できなかった。教師の発問に答え,あれこれ討議し合った割には盛り上がりがなかったのはなぜか,と考えてみた。
 「何々を教える」ということはごく普通に会話の中でも使われることで,用語・歴史的事実などは文字通り「教える」ものであろう。ところが,経験がもとになって,ある過程をへて成立した料学概念を教える理科のような教科は,一方的に教師が考えた手順にしたがって発問し,生徒がそれに答えるだけという指導では,生徒は全くの受け身の態勢であり,全くゆとりのない学習を強いられるということになるだろう。授業で,ある解決を得たとしても,それに至る過程は教師が立てた道筋を歩んだだけで,自らの力で到達した学習の満足感は極めて希薄なものである。
 生徒がいきいきとした学習にとりくむ授業には,既習の経験からの類推や発想の転換,そして,また独創へとつながるような時間的ゆとりが必要であり,教師はそれを辛抱づよく育成していく心構えが常に要求される所以である。ゆとりと充実は,日頃の授業の中に生かされるべきであって,児童生徒一人一人に,それなりに学習の興味を育ててやりたいものである。
 それにしても,生徒を集団としてあずかり,指導する学校教育の場では,一人一人の個性をみぬいて,能力を伸ばしてやることは,口でいうほど簡単なことではない。基盤には愛情と熱意があって,児童生徒の信頼を得た上でこそ,個性をみきわめ,適切な指導助言ができるというものだろう。

 癌研病院名誉院長の黒川利雄先生は,検査データだけをみての,医師の診断をきびしく指摘しておられる。「患者の愁訴は直接口から聞いてわかるもので,患者の本当の痛みや苦しみがどこにあるか見いださなければならない。殊更に痛みを誇張していう患者もいれば,逆に大したことでないと思いこんで言わない患者もいる。医師は予想をたてて,『こんなこともありませんか』と問いかけを発して,聞き出すところまで必要なのである。」「また医師自身が血圧を測るなどして,直接患者の皮膚に触れることが,心の交流の場になるものである。話しだけをきいて,すぐ検査しましょうでは,心の通う時間がない。」いつまでも臨床医をつづけていきたいという先生は,白衣のポケットに懐炉をしのばせ,いつも手先を暖めて患者の診察にそなえておられる。
 さて,新しい教育課程が既に実施され,落ちこぼれを出さないで,個を生かすための指導の実践報告が数多く出さてれている。授業目標に到達するまでの過程で,日常の授業をどのように組み立てて行うか,また,つまずきを生じた児童生徒に対しては,フィードバックさせて着実に取得させ,形成的評価で確かめながら学習を進める事例など,ある見通しのもと,学校では地道な研究が続けられているのをうかがうことができる。教室で数多く行われるであろう,教師の生徒に対するはたらきかけには,臨床医の患者に対する態度と多分に似通った人間関係が,大きくかかわっているのではないだろうか。


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