福島県教育センター所報ふくしま No.65(S59/1984.2) -012/042page
- できるだけ毎日,短時間のカウンセリング。
「学校に 来 れてうれい」,「理科わりと すぎ 」- スポーツテストへの参加をしぶる。小学校中学年のとき,学習発表会への参加を拒否され,それ以後,ほとんどの学校行事に不参加であったことを知る。C教諭「やってみたい種目ないか。やってみたいのだけ参加して よい 。」 2種目参加。満足。この時から次第に学校行事に参加する場面が増えていく。
- 週に2・3度,昼休み外に連れ出してドッチボールや六虫遊び。(どんな遊びか不明)他の不適応行動生徒G,Hも一緒。
- 授業中なるべく指名。「x>4,どっちが大きいか。」,D生徒「大きい方に口あくよ。」
- いろいろなグループ活動のとき,C教諭は必ずD生徒のグループに入って,ともに活動。
- ある時期,D生徒の,他の生徒への理由のないいたずら,小さな暴力事件が続く。ひたすら話をきく。友だちに乱暴したら,「あやまる」と表現。
- 日曜日,魚釣りに誘う。半日釣って,オイカワ3尾。「俺,これいつまでも生かしておく」と大切そうに持って帰る。その後ずっと生きている。
- 校内水泳大会。D生徒と一日行動をともにした。
- 手足が絶えず動いている。すぐべたべたしてくる。話しかけてくる返事に疲れる。大変だった。
- 彼と毎日近くで生活する生徒たちはどんな気持ちでいるんだろう。容易でないなア。
- C教諭とD生徒のグループで弁当のおかず交換。
- 学習部,英語係になる。英語の授業のある日は必ず職員室に出入りする。声をかけられると返事をする。
- 文化祭。合唱コンクールを除いて参加。
(4)C教諭の人間学への生徒の反応
「卒業するまで1年余り,その間にD君と笑ったり,遊んだり,悲しんだり,苦しんだりできるようになればいいなあと思います。私一人でもいいからD君のこと解ってあげたいと思うんです。」(女子T生徒)3.教育者についての人間学的考察
(1) C教諭は,D生徒にとっておそらく生涯はじめて,D生徒の人間存在を認めてくれた教育者である。教育は,計画し,指導し,適合させてくれる。
しかし,抑圧し,放任し,子供を歪曲する教育者は有害である。
(2) 教育者はよい授業をしなければならない。それには,まず子供の人間学についての知見を持つことが必要である。その意味で,C教諭のD生徒への人間学的アプローチの過程は称賛されるべきである。
(3) 教育者は子供を大人の領域へと導く。C教諭は,D生徒との交流に示されるように,つねに子供の世代と大人の世代の問に立っている。
(4) C教諭は,D生徒の暴力などを非行や身勝手ないたずらととらえることをしなかった。C教諭は,D生徒がいかなる問題行動をとろうとも,人間としての道徳性を持つとかたく信じ,受容と共感的理解に基づく指導を続けた。C教諭は,教育者として子供の代理する良心」(MJ.ランゲフェルド)として行動した。
(5) 子供が人間として成長することを助けるために,教育者自身の人間的成長が必要である。C教諭の教育者の人間学の獲得は,D生徒の自己生成を促進した。
(6) C教諭は,D生徒の指導の過程で数多くの困難に遭遇し,何度か悲哀や挫折感を味わった。C教諭は悩み,苦闘した。
しかし.このことが,実は,C教諭に指導を迎ぐ多くの生徒たちに人間としての偉大な模範を示したのである。おわりに
C教諭は知らないであろうが,D生徒の母親は,魚釣りに誘い連れ立って歩いて行くC教諭の後ろ姿に涙を流し,手を合わせて感謝をしている。しかも,C教諭はD生徒以外の問題の異なる不適応行動の生徒G,Hらにも同様の人間学的アプローチを行い,見事な個性の伸長とよい学級づくりを実現させている。
教育は,教育者が子供一人一人の存在に目を向けて,教育者自身が子供とともに創造しようとする意識をもつことが何よりも大切なようである。そのために,教育者自身が教育者である「私」への問いかけをしてみることも意義あるように思われる。案外,このことがすぐれた教育的創造の不可欠条件なのではあるまいか。
<参考文献>
- 人間学的に見た教育学 0.F.ポルノー 浜田正秀訳 玉川大学出版部
- 教育と人間の省察 M.J.ランゲフェルド 岡田修二他訳 玉川大学出版部
- 微細脳機能障害と学習障害 新村出 黎明書房