福島県教育センター所報ふくしま No.66(S59/1984.6) -022/038page

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≪随  想≫

子 ら を 解 き 放 す 夢

科学技術教育部  笹 川 征 喜

 晴れた日のたそがれどき,27年ぶりに小学生時代を過ごした母校の前を通る機会があった。校舎はすでに近代的なものに改築され,当時のおもかげはなかった。よく整備された校庭,そこには子らもまばらで,ひっそりと静まりかえっていた。
 校庭の南側の土手にあった赤松の並木は,樹形が整えられたせいか,少しこぶりに感じられた。
 しかし.樹皮がいっそう黒ずみ,ごつごつした樹幹は,過ぎし日の長さを語りかけてくれた。
 誘われるまま,ふらっと校庭に足を運んだ。
 太い赤松に寄り掛ると,梢をわたる風の音がいつしか私を感傷的な世界へと招いた。
 とめどもなく去来するありし日の光景,それは,どろどろしたものから取捨されながら,遠くなり,小さくなり,薄明の中に輝く星のようなものに昇華された。あのどろどろしたものを,いまあらためて掘り起こす必要もなく,まして,不確かな,そして断片的な記憶を確かめるすべもない。
 また,それらを正す方法も,今はいらない。
 すべて,私だけの中にある光景だからである。
 私はともすると,このような我が良き時代をもとにして物事を考えるくせがある。
 恵まれた大地にしっかり根をおろし,自由に,おもいのままに枝葉を伸ばして繁茂していた落葉樹・根張りをあらわにしていた常緑樹,崩れかけていた土手・・・・・・・・。そこには遊びきれないはどの広がりと奥ゆきのある空間があった。

 ところが,最近の学校では,どこでも同じように玄関周辺に小庭園を造り,校庭にはすべり台・ジャングルジム・回旋塔・古タイヤなどを寸分のくるいもなく幾何学的に配置している。
 子どものかけがえのない生命を保護するため,安全性の高い理想的な環境の追求によって,定型化されつつある形態であるからいたしかたない。
 それにしても,遊びの空間が整然と整えられすぎ子どもが,「物をつくり,冒険や探検をする ,遊びを発明する 」を無雑作に奪いとろうとしている否,すでに奪い取ってしまっていることを忘れてはならないと思う。
 ときに,動物園の集団飼育用の檻を大型化したような錯覚にとらわれるのは,私だけであろうか。 子どもを危険から保護することは,子どもを危険から隔絶することだけではない。
 チャンバラごっこでたたかれた痛み,石につまずき生爪を剥がした痛み,土手から足をふみはずし背中に走った息もできない痛み・・・・。私は,このような痛みを一つ一つ分かりながら,より大きな危険に対する警戒心を身につけてきたような気がする。
 かって我々が遊んだ場所に,「立入禁止」・「遊泳禁止」などの標識を見掛け,有刺鉄線のはられた風景を眺めるとき,思いは複雑である。
 近ごろ,集落の中でも,市街地の公園でも,子らの群がる光景はめっきり減ってきているという。
 また,社会教育の一環として実施している校庭開放も,閑散としている学校が多いという。

 我々は,この一連の現象を深刻な問題として受けとめ,広い範囲の中で,高い次元から対策を講じなければならないと思う。
 先日,テレビで,オランウータンを野性に戻す記録,檻の中にいるチンパンジーの要求不満の解消をはかる実験を見る機会があった。
 オランウータンに,「木のぼりや巣づくり」を訓練する光景。チンパンジーに,「えさをくふうしてとる」ことを教えながら要求不満を解消させていく光景・・・・・・・・・・・・・。
 いずれの光景も,現在の子どもの姿と重なり,空恐ろしくなってくる。
 南側の校庭に続く,水の瀬の昔の響く広葉樹林,そんな校地に,「子らを解き放す」ことを,せめて夢ぐらいでもいいから,持ちつづけていたい。
 光る芽吹きの中を,そして木漏れ日の中を,落葉こぼれる中を,木枯らしに枝が鳴る雪の中を・・・・・・・・・・・・・子らが眼をきらきら輝かせ,遊びまわる姿を想いつつ。


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