福島県教育センター所報ふくしま No.68(S59/1984.10) -027/038page

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個人研究

文法指導における情感の追求

県立喜多方高等学校教諭  大野 京子

1.はじめに

 高校3年の生徒たちと古典を読むのは楽しい。当該生徒たちを 2年次までは古典を担当せず 3年次になって初めて指導するようになった場合など,古典を読む素地を作ってくださった、2年次までの担当の先生方に心から感謝の気持ちがわいてくる。古典が好きな生徒たちの半数近くは,高校3年次の1学期に好きになったという報告がある。(「古典指導の理論と実践」明治書院掲載の鹿児島県資料にによる)古典は読めれば楽しい,古典の内抱する滋味は,読む者を深くひきつけないではおかないのだから,さらに好きになるのは当然だと思う。しかし古典を嫌っていろ生徒の7割以上は,高校1年次の2学期までに,すでに嫌いになっているという。読めないのでおもしろくない。だから嫌い,ということなのだろう。とすれば,それまでに多少のレディネスはあるものの,それらを踏まえて本格的に古典に接する1年次の指導が,きわめて大切になってくる。嫌いだという理由では,「語・文法」がわからない,というのが圧倒的に多い。以下に述べるのは,本格的に古典に触れる,その早い時期に,生徒たちにもっとも嫌われる「語・文法」学習が,本当は有益で楽しく,古文を読解・鑑賞するために,もっとも有力な武器となり得ることを,生徒たちに実感させたいという思いに基づいた,日常的試みのレポートである。

2.教材としての伊勢物語

 古典作品には「語・文法」を中心に,分析的に読むのにふさわしい作品と,そうでない作品とがある。いわゆる中古の物語文学は.「語・文法」を中心に登場人物の置かれた状祝や心情に迫るのに適した作品であろう。なかでも「伊勢物語」は,高校における古典学習の早い時期に読むのに.最適の教材ではないだろうか。
 その理由としては,次のような点があげられる。
(1)さまざまな“愛”のかたちが述べられており,現在の生徒たちの心を十分に打つ力があること。
(2)「心情語」がきわめて少なく,事実のみの羅列に近く,短い文が連続していること。すなわち,「語・文法」の知識に基づき,想像(イメージ)をふくらませ情に迫る余地が十分にあること。
(3)いずれも短編で,読む者の気持ちの流れが弛緩しない授業時数.つまり2時間くらいで読み終えることができること。
 「伊勢物語」は歌物語であるから,歌にこめられている登場人物の心情をとらえさせるのはもちろんのことであるが,散文の部分の,素朴であるがゆえの,のっぴきならない表現を,語の意味・文法に依拠しつつ・その微妙なニュアンスをとらえていくようにする。そうすることによって,物語を語り伝えた往昔の人々の心を,追体験することも可能になるだろう。そこに私たちが,古典を“古文”というかたちで生徒に指導する意味があるのだと考える。
 さいわいなことに,来年度より使用される国語Iの教科書,計13杜20種のうち,13種までが「伊勢物語」を何段かずつ採録している。22段「筒井筒」9種・9段「東下り」8種・6段「芥川」24段「梓弓」82段「交野の桜」各3種・1段「初冠」84段「さらぬ別れ」各1種という具合いである。しかも古文の最初の単元にではない。2番目以降の単元に採用されている(10種)のは好都合である。最初の単元においては,音読が重視されるべきであるし,文法的事項に属することも,歴史的仮名づかいや用言に,簡単に触れる程度の指導が必要だからである。そしてそのある程度の古文への「慣れ」の上に,「語・文法」に即し,分析的に読むことによって,いわゆる“文法”が,古典を読解・鑑賞するための生き生きとした,有効な技術になることを実感させたい。
 ところで,共に,「伊勢物語」を語り伝えた往昔の人々の心に近づく,といったが,それはどういうことなのかということを,「伊勢物語」という作品の概略にふれることによって,なぞってみたい。
 「伊勢物語」は在原業平の歌を中心に,「男」の一代記風の構成をとっているが,実在の業平そのものが描かれているわけではない。作者末詳・成立時期末詳と言われているが,“昔男”は口から口へと語り継がれ,やがて文学化され,歌物語として形成・される過程で,平安時代の人々の憧れが育て上げた理想の人物である。したがって,作者とて,単に一人の人物ではなく,藤原氏のみが栄えて行く世で,


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