福島県教育センター所報ふくしま No.68(S59/1984.10) -030/038page
素朴ではあるが,選ばれ,彫琢された言葉がキラリと光り,身の破滅をもかえりみず,後には后にまでなる程の,高貴な女に恋い焦がれ,“すきもの”として生きる男の行動,論理こそは,もっとも「伊勢物語的」であると思われる。
後段においては,「敬語」を取り上げ,男と女の身分の差をとらえさせ,摂関政治の実態を説明し,前段のような話を形成し,語り伝えた人々の心を想像させ.生徒の心に.この段のトータルイメージを結晶させることをねらいとした指導を展開したい。4.おわりに
現行の指導要録では,国語IIまでは「文語のきまり,訓読のきまりについては,文章の読解に即して行うこと」と示されている。しかし,私はこの試みの中で5つの助動詞を取り上げたが,その文法の知識を他の作品を読む場合の「読解の力」として定着させるためには,ある時期に一つの体系として教えることの必要性は否定できないと思う。それは,しかし,文法のテキストの,目次に従って教えることを意味するのではない。また,文法的事項として,私は,助動詞と肋詞を重視したいと言ったが,そのすべてを覚えさせるべきだと主張するつもりもない。たとえば,国語Iに採られている「伊勢物語」の計七つの段にでてくる助動詞は,「19種」であり,そのうち10回以上用いられているのは,「8種」にすぎない。口承の語りものの性格を有するために「けり」の使用は「90回」を越え,次に多いのが,自然的推移の結果,こうなったという意をあらわす「ぬ」の用例が「30回」を越える。他に「10回」以上用いられている助動詞としては「たり・り・き・ず・なり・む」である。これらをまず「読解のための力」として.適切な「時期」を選び.計画的に指導することで定着させたい。それらについての知識が,ある程度身についていれば,頻出回数の少ない助動詞が,いかにその文を読む上で,重要な役割を果たしているかも,生徒は容易に理解するだろう。たとえば,9段「東下り」の「京にはあら じ 」の「じ」からは,貴族が貴族らしく生き得るのは,京(みやこ)以外にはない時代に,その京に住むことを断念せざるを得ない,男の悲しい決意を読みとることができる。また,22段「筒井筒」では,女が詠んだ歌の「……夜半にや君が一人越ゆ らむ 」の「らむ」からは,暗い山路を,高安の郡の女のもとに向かう夫の姿を,ありありと脳裡に浮かべて,その身を案じる女のせつない気持ちを読みとることができるのである。
ところで,国語Iの教科書20種すべてに採られている「徒然草」の場合はどうであろうか。採用されている段にばらつきがあるので,K社に採られている,序段,41段,137段,141段について調べてみると助動詞は「15種」うち13種までは「伊勢物語」の7つの段にでているものと同じである。しかも「伊勢物語」に頻出する8つ助動詞が,やはり比較的多く用いられている。ただし,頻出回数は「けり」にかわって,「き」が多いなど,作品のちがいから生じるひとつの傾向はもちろんある。以上のように,やや独断的な言い方かもしれないが,高校1年生の段階で,古文を読むための「ミニマムエッセンシャルとしての助動詞」は,必然的に,成る程度絞られてくると思う。それらを,意図的・計画的に指導して行くことが,古典の読解指導の過程で行われる,文法指導の要諦であろう。
なお,助詞については,この「試み」で,「なむ」を2種,そして「さへ」を取り上げて,その語にこめられている意味を想像(イメージ)したが,助詞の場合は,特に終助詞と副助詞に重点を置いて指導したい。もちろん,文法の知識をもとに,想像力をはたらかせ,読解して行くという方向性を見定めての上のことである。
勝手に想像力をふくらませてしまって,強引な「深読み」の傾向がなきにしもあらずだが,こめまうな「試み」をとおして,ささやかな一語の持つ,しかし,深く,そして広い,情感にみちた世界を垣間見させたい。そのことによって,生徒たちに「ことばの力」を実感させ,古典作品の世界に触れ,逍遥することの,知的おもしろさを感じさせることができたら,国語教師として,とても幸せなことだと思っている。