福島県教育センター所報ふくしま No.71(S60/1985.6) -002/038page
論 説 学 校 教 育 と 学 習 指 導
一学習指導のAUTHENTICITYのためにー
郡山女子大学短期大学部教授
長谷川壽郎はじめに
要請によって,学習指導にかかわる小論を所報に執筆したのは,今までに4回になる。学習指導と教材研究(所報32号)、学習指導と評価(所報51号),学習と人間形成(所報61号),これからの教育と学習指導(所報66号)である。
これらの小論を通して,筆者の学習指導についての基本的な考え方にかわりはない。そもそも人間というものは、よりよい人間に育っていこうとする目的論的存在者であって、そのために、学習を通してもろもろの能力を獲得し発展させていかなければならない。しかし、動物のように本能によってすべて規定されているのではないのであって、いかに人間としてそれにふさわしく育つための学習を成立させるかについての指導を必要とするのである。ここに学習指導の原初的位置づけを見ることができるであろう。
このような考え方は、これまでの小論で、それと分明に記述することがなかったとしても、通奏低音のように流れているわけである。そして、このことは、人間は本来学習する存在、ホモ・ディスケーンス(homo discens),すなわち学習人とみる人間観に根ざしている。しかし,人間が単に学習人であることによって,その本来性を十全にすることはできない。人間がその真実存在であることの可能性を現実化するための不可欠の前提として学習人であるのでなければならない。人間の真実存在は実存とよばれる。実存であることこそ人間の本来性である故に,学習することは,ここに帰結する。そのことを成就しうるように支えはげましていく営みを学習指導というべきであろう。
ところで,学習指導は,教育の方法機能の一つであって,他の機能である生活指導や教育評価と相互補完的に機能するときに,相乗的に教育効果を高めることが出来るのであるとする考え方は,筆者にとってはまた一貫しているところである。
さて,既往の小論は,人間は学習人としてその学習を生涯にわたって展開する存在であり,実存たることに帰結すべき学習でなければならないとしながらも.当面する学校教育,とりわけ,初等中等の教育の現状を念頭において考究したものであった。もちろんその原理となるものは,いわゆる生涯学習にかかわって,変更される要はないのであるが,主として関心は,上述のような枠内にあったと言ってよい。今回,あえて学校教育を表面に打ち出したことについては,いささか理由がある。
昨今の教育改革論議の中で,学校教育がゆさぶりをかけられていることは.先刻承知のとおりであるが,そのことは,現在の学校教育に反省し,即刻改善につとめなければならない諸問題が現在していることは疑うべくもないのであるが,学校教育を否定することにつらなったり,学校教育に自信を失ったりしてはなるまいという思いをもつからである。
もちろん,学校教育が,その真っ当な機能を展開できるためには,一般の人々の教育に対する正常な考え方が根底的に重要であることは言うまでもない。
しかし,その故にこそ学校教育にたずさわる者が,このときにおいて,学校教育の哲学に十分な自覚をもち,その機能の正常な発現につとめ,一般社会に向かって,実践を通して訴えるところがなければならないと考える。
以下の小述は,このような思いをこめているわけであるが,学校教育の哲学とも称すべきものを詳述することは筆者の力量をこえることであるので,他の文献等にゆずることとする。(たとえば,オリヴィェ・ルプール著,石堂常世,梅本洋訳,学ぶとは何か-学校教育の哲学-,勁草書房,1984.12.1)
ただ先行小論,これからの教育と学習指導を受けて,とくに自己教育力の育成と学習指導の問題をさらに考察し,その基盤の中心となるべきものについて,日常指導上つねに心掛けるべき事項を試論として提出してみようとするものである。