福島県教育センター所報ふくしま No.71(S60/1985.6) -003/038page
1. 学校教育へのたしかな自信を
今日の教育改革の論議が,学校教育だけを目ざしているわけではないことは,言うまでもないが,最も関心が寄せられているのは学校教育であろう。そこで,学校教育とは何かを問い直し,それへの自信をたしかなものにしなければならない。まず次の実例を見よう。
(1)「学校なき社会」の実例(前掲書P.162)
これは,アフリカの伝統的な「部族」の例である。「ブラック・アフリカにおいては,子どもは社会生活全体のなかに最大限に同化することを許されるのであるが,その際,何ら圧力をかけられることもないし,また,これは子どもにとっていいことなのだと外部から判断を下されるような明確にすぎる方向づけを押しつけられることもない。それゆえこうした社会の仕組みにおいては,そのむさぼるようなまなざしを大人の世界に釘づけにした子どもたちが確かにその本来の創造牲を思うがままに発揮してはいるものの、特に注目すべきは,こうした子どもたちが社会的に驚くほど保守的な態度をとるようになり,秩序や役割分担や伝統に対して途方もなく強い欲求を抱く一方である,という点である。」とし,この自然発生的教育は「子ども一人一人の心のなかに響きわたるあの長上の呼びかけに対して強制されなくても進んで 自由に 従うことを可能にするのであり,それによって,追従的な態度への意志を若者のうちに生みだすのである。」と述べてある。(これは前掲書の著者が他の研究者による論説を引いて説明したものである。)この例は,今日の社会機構においては,学校教育が不可欠であることの証拠立ての一つとなるであろう。然らば,学校教育とは何であろうか。
(2)学校教育とは.(前掲書P.166)
著者(Olivier Reboul)は,学校教育の概念を種々探究して,つぎのように一応の定義をのべる。「学校教育とは,特定の制度の内部で展開する営みであって,能力をそなえた人間に委ねられる長期にわたる活動であり,しかもこの活動の明白な目的は,被教育者のうちに批判的精神を発達させつつ,技能および転移可能な組織化された知識の獲得を可能ならしめることである。
この定義は,教育には学ばせようとする意図が伴うという,我々の最初の主張の敷衍であるにすぎない。学ばせるということは,知識を所有させる,行動させる,理解させるということを意味しうる。だが.信じこませるということを意味しうるものでは断じてないのである。」と。
この定義に筆者の立場から付言しなければならない重要なことがある。それは,学校教育は,このようにしてしかも人間が実存として生きていく基礎づくりをたしかにするのでなければならない。ということである。実存としての基盤の中核は何であるか,それは次項以下においてふれることにしよう。
ところで,この学校教育の定義を検討すれば,いかに学習指導の機能が重要であり,かつその発動の方向が如何にあるべきかを読みとることができるというものである。そもそも学指指導は,知識・技能・態度等を身につけさせる機能なのであるから。
われわれは,このようにして.学校教育への自信を持ち,その本質に立って学校教育を推進しなければならないが,わが国の学校教育の現況から,その蘇生の方向とも考えうる提言にきき,実践をもってこたえるべきである。その提言とは.教育内容等小委員会の四項目の提言であるが,それは「自己教育力の育成」に収歛するであろうことは,所報66号の拙論においては不十分であった。それはとにかく,自己教育力の問題をさらに追究することとする。もっとも,わが国における学校教育の蘇生の原理は,実は,教育基本法の第一条・第二条等の法文のうちにある教育の原理にまで遡及されるべきであるが,今回は紙幅の都合もあって,そのことを指摘するにとどめる。
2. 自己教育力について
(1)自己教育と自己教育力
教育する者と被教育者が別人の場合を他人教育,同一人の場合を自己教育と分類することができるわけであるが,他人教育は結局自己教育を目覚めさせるものであり,自己教育はまた他人教育を求めて自己教育を充実向上させていく。自己の力のみで自己を教育するとは,自己の思い上がりであり,自己教育の破綻を来す。しかし,教育は究極するところ自己教育である。
ところで,自己教育とだけ表明することは.教育事実のいわば記述的表現であり,自己教育力という場合は,構成的表現であって,自己教育の遂行が,深く意図されている。すなわち自己教育の遂行は,