福島県教育センター所報ふくしま No.71(S60/1985.6) -004/038page
その遂行を現実化する諸能力を問題にしなければならない。それ故に自己教育力なのである。その育成が何故今日問題にされるかについては,教育内容等小委員会の報告書について再確認することとしよう。
さて,自己教育力の構造はどうであろうか。
(2)自己教育力の構造契機
[1]教育の目的論的視点に応ずる契機として,実存的覚醒の度合,実存的意志力であり,[2]方法論的視点に応ずるものとして,[2] a 学習指導に応ずる自己学習能力(学習の意味の自覚・課題の発見・方法の自己選択・解決の自力遂行・自己反省等の諸能力をふくむ),[2] b 生活指導に応ずる自己超越力(自律・自己理解・自己実現の諸能力をふくみ更に向上しようとする能力)[2] c 教育評価に応ずる自己評価能力である。
上記は小論の制約上委曲を尽しえないが止むをえない。ただ[1]にかかわって次のことを記しておきたい。人間が人間になること,becoming a personというPerson は人格であり,それは実存でなければならない。その中核はpersonの語源であるpersonareに示されるように.良心の呼びかけの響き渡るのを聞き知り,それに従うということなのである。われわれは日常の指導でつねにこのことに配意していなければならないということである。
3.自己教育力の育成と学習指導のあり方
自己教育力の育成に当たっては,その構造契機のそれぞれに即して手だてを講じなければならないということと.それにかかわる学習指導は,つねに他の二つの方法機能(生活指導と教育評価)と相即的に機能を発動させなければならないということを前提するのでなければならない。なお.学習指導は,むしろ生活指導を基盤として展開されるべきなのである。この意味で2(2)[1]及び[2] b をまず念頭において考察していくが,メモの摘記にすぎなくなるだろうことを寛恕願いたい。
(1)根本は,生活における自己の責任性の自覚をたしかにさせることである。これは,自己の良心の明晰性を自らのうちに高めることを支え励ますことである。責任性とは良心のよびかけにこたえることに他ならないのである。責任に相応するresponsibilityは.まさに応えることができることである。このようであるならば, 日常の学習指導において良心の明晰性のための配慮はどのようであるべきであろうか。 少くとも,次のような心構えが大事になるであろう。児師ともに励まし合い支え合いながら,[1]偽らない学習をする。(どまかさない,ずるいやり方をしない,わかったふりをしない,うそをいわない,いいかげんにしない。)
[2]自分の考えややり方に責任をもつ。(みだりにひとのせいにしない。)
[3]真実をもとめ,深くわかろうとする。
[4]思いやりがある。(ひとをばかにしないで,そのよさを見つけようとする,ひとの痛みがわかる,支え合うことができる。)
[5]教材,教具を大切にあつかう(そのはたらきを十分いかすことができる)。
[6]よりよいあり方をしようと努める(フェリビリズム-fallibilism-の立場に立って,自分にきびしく,自分をのりこえる努力をする)。
(2) 自己学習能力のために
自ら学びとる能力を育てるとか.自ら追究する子どもを育てるとかの学習指導の研究,かって主体的学習の研究とかいわれたものなど,いずれもこの方向であろう。[1]何よりも学習の意味の自覚にみちぴくことが大事である。本当の学習意欲はここに根ざすのであるから。[2]学習の仕方を身につけさせなくてならない。それには,それぞれの課題解決には,それぞれのバラダイムがあるから,それを意識化させるとともに,適用の場を得させるようにすることである。[3]効力感が育つように工夫し(所報61号拙論参照)自分なりに自信をもたせる。[4]練習を重んじ,competence(高度の実行能力)へ挑戦させること。
(3)自己評価能力のために(所報66号拙論参照)
[1]反省の習慣形成が根底。過剰反省や評価をいましめ,自己を少しずつでも高める努力とその仕方を援助する。[2]形式よりは具体的な次の方策樹立とその遂行を援助する。
おわりに
以上,筆者の思いとは裏腹に,行きとどかないものになった。最後に,学習指導のオーセンティシティは,人間が実存として現在及び未来を他と共に創造的に生き抜く力を自ら獲得しうるように,良心の明晰性をよりたしかにするように,学習指導がその機能を発動するとき,その名に値するであろう,ということを付記し,大方の御批判を願うものである。
(60.5.6)