福島県教育センター所報ふくしま No.71(S60/1985.6) -022/038page
<随 想>
機 械 を 捨 て る
経営研究部 本田 孝
今からちょうど30年前になるが,小生は学校を卒業するとすぐ,東白川郡塙町の分校に赴任し,複式学級の子供たちを相手に3年間を過ごした。
ところが,59年度末の人事異動で,同じ分校に勤務したことのある先生が,当教育センターに転勤して来られ,その当時の部落の様子や先生方の動静,そしてまた子供のことなどに話がはずみ,当時を懐かしく思い出した。
それらの話の中で,騒音もなく,のどかな山間いのたたずまいの中で,分校には教材,備品が極めて少なかったけれども,純ぼくな子供たちと共に,静かな環境に包まれながら落ち着いて授業ができたということに話が及ぶと,彼はそれを強く否定し,次のようなことを話してくれた。
住民は,もともと営林署の仕事で生計をたてているわけであるが,立木を倒すためのチェーンソーが普及してからは,手びきのノコギリは姿を消し,そのために,仕事の能率は急激に上昇した。
それが,切り倒す木の本数によって賃金が決まるので,休憩時間も返上してチェーンソーがうなりをあげることになるわけである。
それが,300余台が同時に作動したときの昔はすさまじく,かん高い騒音が山の谷間にこだましそのために,分校での授業が不可能に近い日が幾日も続いたということである。
これが以前であれば,まさかりが立木の根元に打ち込まれるときのカーン,コーンという音,ザーコ,ザーコという,けだるそうなノコギリの音,切り口に,大きなくさびを打ち込む力強い音,そしてやがて,メリメリッ,ザーッという空気との摩擦音を残して木の倒れる音,これらの音は騒音というよりは,山間いの静寂の中に溶け合った,快い生活のリズムを感じさせるものがあった。
それが,チェーンソーの出現によって,状況は大きく変わったのである。
チェーンソーという機械は,仕事の能率をあげ,手びきのノコギリよりは,住民の経済生活を豊かにするために役立っていることは間違いないのだが,そのために犠牲になるものがあまりにも多すぎるような気がする。
子供たちの学習環境まで破懐してしまっては,家庭が金銭面でうるおっても,子供の学習面での損失を考えると,何のための機械利用か疑いたくなる。それに.チェーンソーから伝わってくる衝激的振動は,新しい職業病を生み,倒伐の競争は過労を生み,ストレスの増大をもたらす。
これらは,山の分校をめぐって,チェーンソーという小さな機械のもたらした功罪であるが,現代は,コンピュータを中心として,機械化,省力化,能率化の波が津波のように人間生活にせまり,学校教育も含めてその洗礼を受けつつあり,今後はますますその傾向は増大すると思われる。
特にパソコンの学校教育への導入が盛んになるきざしがうかがわれる昨今であるが,そのこと自体は,まことに結構なことであり,パソコンでしかできない教育の方法についての研究が盛んになることを期待する一人である。しかし,ややもすると何でもパソコンでという,パソコンオンリーの考え方になりがちなので注意したい。
機械は,それを利用することによる“功罪”を知ったうえで,“功”にかかわる内容を強く追求していくものでなければならない。それが,機械を使いこなすということになるのである。
機械を使いこなすには,利用の場面に即して,“罪”に対しては機械を捨てることを考えなければならないし,勇気をもって機械を捨てることができなければならない。
機械は,あるから使うのではなく,使う目的に照らして有効である場合に使うのである。
少なくとも,人間そのものや,人間と人間の関係を疎外するような使い方は厳に慎まなければならないであろう。