福島県教育センター所報ふくしま No.74(S60/1985.12) -025/038page

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 この講演会は,郡内各校PTAにも呼びかけ,地域社会の理解の導入となり,その後の推進に大きく貢献した。
(4)PTA教養委員の富岡養護学校見学及び,養護学校職員との懇談会。
 その後,ボランティア活動を申し出た保護者もいた。
(5)文化祭における資料展示。

12.保護者の感想

                           3年 母
 私の友人にも障害児を持つ方がおります。その方は,こう話していました。「優子ちゃんの寝顔を見ていると.何でこんなになってしまったの?このまま目がさめないでほしい,と何度思ったかわからない。この子ひとりのために上の二人の男の子はどれはど肩身の狭い思いをしたか。人に何と言われても,何をされても,ただニコニコ笑っているだけ……。何度一緒に死のうかと思ったか……。今は北の方の専門学校みたいな所へ行かせているのだけど.考えれば考えるほど夜も眠れない目が続き,手の甲もこんなに腫れてしまったのよ。障害児がいるということで身内の縁談にだってさしつかえているのよ。それに優子にしたって,女の子だから身体だって一人前に汚れるでしょう。心配でね。よく言い聞かせているけど,きちんとやっているかしら。私がじょうぶなうちはいいけど,歳をとり死んでしまったら,後に残った優子はいったいどうなるのかと思うと頭の中が何とかなりそうだわ。」
 賢くん(9歳)の母親は,「私は,この子が障害児だとわかった時,一緒に橋の上から飛びおりて死のうと思ったわ。でも生まれたこの子に罪はない,生んだ親の私に罪があると思い,何とか少しでも普通の子に近づけようと.幼稚園には何とかお頼いして入れていただいたの。でも結果的には一歩の進展もなく,やがて幼稚園からも断られるし,どうしていいか迷ってしまったの。周りの人の勧めで思いきって東洋学園に入れてほんとうに良かったと今は思っている。お茶碗を持ち,自分でごはんをたべる。言葉を話し,笑い,泣く。物事に対し反応を示す。そういう普通の子どもを持つ親に,障害児の親の気持ちなんて決して理解してもらえないでしょうね。夫婦ケン力も私たちには許されないのよ。夫婦協力し心をひとつにしていかないと,とても障害児なんて育てていけないのよ。」と語ってくれました。
 双方のお母さんとも.「今何を希望するかと言われたら,障害児が困っているようなときに出会ったら,ひと声でいいから 『どうしたの』『どこへ行きたいの』『何をしてほしいの』と手を差しのべてほしい。」と言っていました。
 二中の交流会も今年で終わりだと聞きました。老人ホームや東洋学園と一番近い場所にあり環境的にも恵まれているこの学校が.障害児やお年寄りとの交流をなくしてよいものでしょうか。型にはまった交流や慰問でなくても,ただ遊びに行った・来たというようなものであっていいから,いつまでも続けてほしいと思います。
 反応のない子どもをだっこし,よだれを流している子どもの口をふいてやり,背負い,手をつなぎ,ポールで遊んでやり,ポックリを作って履かせ,紙芝居をくふうした二中生,これこそ非行のない学校,思いやりのある素直な生徒たち.りっばな成績の二中のイメージです。この美しいイメージをつくりあげたものこそこの交流の賜物だと私は確信しております。
 ※ 東洋学園とは.富岡養護学校に隣接する養護施設(満18歳まで)で,児童生徒はこの学園から通学している。

13.まとめ

 「道徳」「学級会活動」「学級指導」の指導記録を省略したのは,与えられた字数の関係にもよるが,文部省の基本姿勢として,「理論より,まず交流の実際体験を」という指導があって,本校の研究推進の軸を,本校生徒と養護学校児童生徒が触れ合う交流行事としたからである。とはいえ,2年間に5回の全体交流会という数は少いかもしれない。主として,学校裁量の時間を活用したが,中学校の教育課程の中では精一杯であった。
 交流の質的内容についても,初め美術作品や作文の交換とか,合同音楽祭とか,安直な本校の健常児的判断で提案したが一蹴され,結局はレクリエーション的なものとなった。このことも,日を重ねるにしたがい首肯されたことであった。
 生徒の変容を客観的に正確にとらえることは難しい。それは,中学生の複雑な心理にかぎらず,人間の心の深奥に立ち入ることだからである。とはいえ,生徒たちの心に清純な風が吹き,豊かな生きがいに胸ふくらませた息吹きや姿を,私たちは確かにこの眼で見,肌で感じた。

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