福島県教育センター所報ふくしま No.74(S60/1985.12) -036/038page
≪随 想≫
弓道部創設の思い出
経営研究部 藤本 忠平
日のぬくもりを感じる早春の午後,静けさの中に快い響きを残して矢が的に当たった。会心の的中である。壁には,足踏みに始まり,胴造り,打ち起し,引き分けなどを経て,会,離れ,残身に到る弓道八節(射法の八段階)が大きく書かれてあった。
これが,生徒たちに案内されて市営の小さな弓道場にやって釆た私の目に最初に映った光景であり,弓道との出会いとなった。やがて弓を引き終わったK氏が初対面の私に深々と丁ねいな礼をされた。私は,礼に始って礼に終わる日本古来の武道の精神が生きているということを深く感じた。
その当時,私の勤務していた高等学校には弓道部が無かった。それで,市民の方々と一緒に弓を練習していた生徒たちが愛好会をつくろうとしていた矢先で,私は生徒たちに乞われるままに顧問を引き受けてしまった。それまで,私は弓を引いた経験は全く無かったが,生徒たちが顧問を求めて東奔西走した結末が私にきたのであった。
限られた生徒会予算で,数多くの運動部を維持していくことが容易でないことは,今も昔も変らないであろう。私の勤務していた学校もその例にもれず,新たに弓道部を設けることは,きわめて困難な状況にあった。それで,予算無しの条件付きで弓道愛好会の発足が承認されたのであった。そういう状況であったから,弓具も練習場も無く,生徒たちは専ら市営の弓道場に行って,市民の方々の御好意に頼って弓具をお借りしながら,早朝と放課後の練習に励んだ。
弓道場での生徒たちはいつも皆生き生きとして礼儀正しく,市民の方々から好感を持って温かく受け容れられていた。そうして,いつも生徒たちを熱心に指導してくださった方がK氏であった。
弓道愛好会は,このようにK氏をはじめ,弓道を愛好する市民の方々から陰に陽に支援され,励ましを受けながら,部として承認されない負い目をはねかえして,技倆においても,結束力や人数においても他に引けをとらないまでに成長した。こうして,弓道愛好会の発足から四年後,生徒総会の万場一致でようやく弓道部として承認された。この四年問は,予算,弓具,部室,弓道場のいずれも無く,競技会等への参加も制限された厳しい状況であったので,無から有を生じる困難は覚悟の上ではあったが,私と共に労を分かち合った生徒たちには,本当に長いトンネルだったに違いない。
長いトンネルと言えば,青函トンネルだが,その掘削に当たり,最初は先進導坑を掘って,果たして大トンネルの貫通が可能か否かを試行したことは有名である。これとよく似ているのが,企業などが本格的な操業の前に行う試験操業であろう。こうした,いわば先導的試行は,その後の成否の鍵を含んでいる点で重要である。弓道部創設までの愛好会にもこれと同様な意味があったと思う。 今,教育界で大きく取り上げられている児童生徒の自己教育力の育成や個性の尊重をふまえた個別化教育の実践結果が待ち望まれ,注目されるゆえんも,この先導的試行のもつ意味と相通ずるものがあろう。
昨年,ある小学校に伺った時にM先生にお会いした。M先生は,弓道愛好会当時,私と労を共にした生徒の一人で,久々の対面になつかしさが一杯であった。あれからもう二十年近くなる。かって私の勤務したあの学校には,その当時いくら願っても叶うはずも無く,夢物語りに過ぎなかった弓道場が立派に建てられ,弓道部は益々隆盛の一途をたどって今日に至っている。