福島県教育センター所報ふくしま No.77(S61/1986.8) -028/038page
<随 想>外国語教育と国際理解
学習指導部 田部 定義
最近,国際理解ということをよく耳にする。学校などでは,英語の教師がこの立て役者として活躍しているようである。国際理解の第一歩は,ことばの理解からということなのであろう。ことばが理解できれば,それを使用している国民の理解へとつながるという発想のようである。
我が国では中学校から英語を教え,高等学校を終えるまでに,6年間も英語を勉強している。そして大多数の日本人は英語国民を理解していると信じている。また,世界はひとつであり,同じ人間同志だから,善意と誠意をもってすれば,国際理解も国際交流も比較的容易であると信じている人々も少なくないようである。
しかし,「ことば」は「こと」,つまり「文化」を表現しているものであるから,世界のことばの多様性は,とりもなおさず文化の多様性を示すものであると考えている私には,真の国際理解は途方もなく難しいことのように思われる。英語を多少知っているからといって,英米の文物をかなり理解したつもりでいると,直接外国人と接触した場合に,戸惑いを感じることが少くないのである。
日本の文化は単一民族の中で培われて来た等質な(homogeneous)文化であるが,これは世界的に見るとむしろ例外で,多くの国々は幾つかの民族から成り立ち,その文化は多様性(diversity)・異質牲(heterogeneity)に富んでいる。日本人は,根本的に人はみな同じであるという考え方をするのに対して,アメリカ人は.人はみなそれぞれ個性的で,本質的に異質であるという考えをもつ。この人間のとらえ方の本質的な差異を理解しなくては,ことばを多少理解しても,国際理解あるいは外国人との相互理解はなかなか得られないであろう。人間の本質である誠意や善意をもって外国人に接することは当然であるが」それすらお互いの民族のもつ文化に共通項の多い場合でないと.必ずしも国際理解のマスター・キイとはなり得ないのである。日本人は,アメリカ人については一応理解しており,彼等もまた我々や,我々の立場を理解していてくれると考えがちである。だからテレビの番組で彼等が日本を手厳しく批判する場面を視聴したりすると,がく然とするのである。等質な文化をもつ日本人の尺度では,複合文化のアメリカ人は計り知れない部分があるのである。日常生活のレベルから高次の政治や思考様式に至るまで,文化の差異から生じる葛藤(conflict)や,いわゆるカルチャー・ショックを経験することになるのである。従って,外国語の教授において,「ことば」を教えるだけで事足れりとするならば,そのことばを使用する人々の思考様式や文化の理解はおろか,実は,ことばそのものの理解さえ不十分となり,国際理解など到底及ばないことになるだろう。ことばは文化を表わすシンボルであるということを意識し,ことばの背後にある民族的・社会的・宗教的意味合いまでも含めて指導することが,国際理解への第一歩なのである。
私たちは,日本語に正確に対応する外国語はほとんどないのだという認識のもとで,英語などを教える必要があるようである。例えば「東風」は春の暖かい快い風だが,英国のそれはa piercing east windという言い方があるように,肌を刺す冷めたい冬の風である。レモンは爽やかなイメージだが,lemonは「ブス」のことだから英語の褒めことばとしては使えない。日本では子どものいたずらを叱って「もうするなよ」と言えば「はい」とうなずく。英語ではこの場合”No,I won’t.”と言って首を横に振ることになる。老人が「目を細めて」孫を見るのは,かわいいという気持ちが表出しているのであるが,英語では「疑いのまな差し」で見ている様子の描写になる。
これらの例のように,文化の違いは,表現や行動様式の違いとして表出してくる。身振りやゼスチャーでさえも,その国固有の文化に根ざしているものであるから,当然,国によって異なることが多いのである。英語教育においては,ことばだけでなく,その背後にある文化や行動様式までも注意深く指導することによって,国際理解への手がかりを与えるよう,十分な配慮をしなければならないことを痛感するのである。