福島県教育センター所報ふくしま No.81(S62/1987.6) -005/038page

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    <随想>

あぁ 若鮎躍る

学校経営部 三津間 安宏

 水ぬるみ若鮎躍る頃となった。鮎、冬幼く群れ春銀鱗、流れを逆らってのぼる。夏長じ、孤石を守り、わが命をはみ跡に刻む1科1属1種の清流の香魚・・・・・・・・・この鮎と出会い、鮎釣りに憑かれて幾とせになるだろうか。桜が過ぎるともう鮎を迎える気分になる。解禁が日いち日と迫ってくる歓びは、当初の頃と少しも変わらない・・・・・・・・・。
 当センターでも、釣りを趣味とする先生方がかなり多い。特に渓流岩魚・山女魚釣りが盛んのようだ。岩魚釣りを将棋に、鮎釣りを囲碁になぞらえた人がいたが、前者の1本勝負の直截さと、後者の定石をふまえつつも、知的遊戯のような面白さとを比べてのことであろうか。個性がみえてうなづける。私はいま、何故か後者の鮎釣り、それもドブ釣り(沈め釣りともいう。毛針を水中で踊らせ竿を操作し釣る技法。群れてのぼる若鮎を追う。)にこだわっている。緑したたる初夏、翠らんに身を置き、その悠久さにひたる感動はもちろんだが、どうもそればかりではなさそうだ。
 はやる胸をおさえつつ釣場に到着、夜明けも近い。川相をみる、川底を想定し場所を決める。つぎに仕掛け、毛針の選定である。昨年までの実績メモで熟慮はしてきたが、流れの緩急・川面の光の明暗・水の清濁によって思いをめぐらす。いよいよ川に入る。胸までつかり立ち込む。長竿を操作して、まるで虫が舞い上がったかのように、石垢(けい藻・らん藻)が、いま剥がれたばかりのように、見えない水中の毛針の踊りを工夫するのである。これらがぴったり合い、鮎が興味関心を示したとき食いつくのである。だから、本日の釣果は、この条件整備が適切であったかどうかにかかる。それは長年の意図的経験で身につく。肩々相摩する隣の釣人ばかりにかかり、私はさっぱりで恨めしく思ったこと数多い。実に奥深く、いつも研究と修養が必要なのである。
 私がこの釣に憑かれてこだわるのは、この探究する道にひかれるからかもしれない。そういえば、先達の釣師がこう言った。「釣道はあなた方が努力している教育道に通じる」と。なるほど、若鮎が群れ躍る姿は、児童生徒の生き生きと活動する姿そっくりだ。希望に燃え明日に向かって進む姿は、とどまることを忘れたかのように遡(そ)上する若鮎そのままなのである。そして私どもが努力する川相の理解は、地域・児童生徒の実態把握であり子ども理解である。仕掛け・毛針の選定は、仮説ともいえる手だての工夫であり、竿の操作は、指導法・指導技術ということになろうか。そう考えると、これはそのまま教育研究法であり、毎日の意図的指導姿勢づくりになっているかもしれない。それに何よりもこの場合、本人の自己啓発による課題解決意識が旺盛だ。「自己教育力がこんなところに発揮されているものなのかな」と、こじつけながら妙なところで合点したりもする。
 若鮎はやがて成長して自分だけの石を守る。児童生徒も同じである。私たちはそのひとり立ちまで、日々受容的態度で個々の個性に共感しながら、細かな手だて配慮をし、援助指導に心がけ努力はしているが、これがまた難しい。どの道も奥深い。いつの日にその奥義をきわめることができるのであろうか・・・・・・・・・。
 何はともあれ、悠然と河原の大石に腰をおろして、持参のにぎりめしにかぶりつきながら、鮎というもの言わぬ美人と自然の中に溶け合うとき、「よし、やるぞ」と明日の仕事に意欲がわいてくるから不思議である。


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