福島県教育センター所報ふくしま No.82(S62/1987.8) -006/038page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

随想

今 また 恩師に学ぶ

学習指導部 水野 信

 最近の科学技術は日進月歩とも言われるほどにその発達には目を見張るばかりである。カードのように薄くなって胸のポケットにおさまっている計算機を見ると,面倒な計算をしてくれる魔法の機械があったらなと夢見たこともある自分の子どもの時代が目に写ってくる。

 戦後間もなく、背を山に抱かれ、眼下に広がる田園を見渡せる丘に立つ、全校6学級の小さな国民学校に入学した。物資の窮乏していた時代であった。教科書は、新聞紙を広げたほどの大きさの両面に印刷されたものを切ったり、折ったりするとうまい具合にぺージがそろい、縫い糸で中央をとめて出来上がる。ノートも不足していたので、ざら紙を2つ折りにして教科書と同じようにとめて作る。そして、体裁を少しでも整えようとして、けい線を引いたりする。これも、当時の世相を反映した子どもなりの知恵であったのかも知れない。それにしても、私にとって学校は最も楽しいところであった。

 2年生の時、女のT先生の下で掛け算九九を学習した。その学習は、掛図の裏紙に子どもたちで掛け算九九を書くことから始まる。物資の乏しい時代であったので,使用しない掛図は教室の掲示物や通信票、賞状にまで有効に利用されていた。それぞれの班が二の段、三の段、…、九の段を担当し、教えられた九九のきまりに合っているかを確認しあいながら表にまとめていく。そして、それを教室の後ろの壁にはっておく。

 教職の道を歩み続けてきた今、当時を顧みると、T先生は、子どもの失敗を恐れず、子どもが内にもっている可能性を尊重し、主体的、協働的な活動を大切にされた。そして、子どもが自ら発見し、創造する喜びを体得できるように配慮されていたものと思われる。それとは知らずに下校時に全員が起立し、先生の方を向いて「二一二、二二が四、二三が六、…」と元気な声を張り上げる。初めは快調に進んでいくが、六の段を過ぎるにつれ次第に小さな声にってくるとともに後ろの壁が気になってしようがない。ところが、自分たちが担当した段だけは覚えが早いので、結局あちこちの者でつないでいく。そして、最後だけは全員が自信満々に「九八七十二、九九八十一、先生さようなら、みなさんさようなら」で一日が終わる。完全に先生の術中にはまってしまっている。それでも日ごとに六の段、七の段の声も大きくなり、やがては一人残らずマスターしたのである。

 6年生になると、4年ぶりにまたT先生に巡り合えた。今度は、立方体の体積の学習であったかどうか記憶が定かではないが「二二が八、三三二十七、…、九九七百二十九は覚えられるかな−?」。と子どもの心をくすぐる。「ようーし」とばかりに、以前と同じ方法で、やはり最後は「九九七百二十九、先生さようなら、みなさんさようなら」とリズミカルに結ぶ。数詞の特徴である流暢さに乗せられて覚えることができたのであろう。

 一般に、小学生のころは、丸暗記が得意で何でもはじめから覚えてしまうと言われるが、単調な反復練習は機械的になってしまい、興味や意欲をそぐことにつながりかねないとも言われる。T先生は、この辺りの子どもの心理を巧みにとらえられた。先生を信頼し、先生がすべてであった自分たちは幸せだった。以来30年を経た今でも、自分が教壇に立つとき、恩師の姿が心をよぎり、再び学ぶ思いがする。

 子どもたちの手で数学を創り、思考する場を与えてくださった先生、冬ともなると雪の校庭を駆け回り、体当たりしていける先生、T先生の印象は、今もなお鮮明に残っている。物が不足し、世はまさに混乱の渦巻く中、つらかったこともあったはずであるが、年とともになつかしい思い出に昇華して、心豊かな子どもの時代であったと心に残るのは不思議なことである。 


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育センターに帰属します。