福島県教育センター所報ふくしま No.84(S62/1987.12) -010/038page

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随想

生きる・育つ

科学技術教育部   中野 敏光

 夏休みの1日、会津田島町から日光へ通じる山間の道を車で走っていた。運転も疲れたのでそろそろ休憩と考えていたとき、・・村営物産店の大きな看板が目にはいった。何か珍しいお土産品でもないかと思い、車を駐車場に入れた。

 店の入り口から二三歩入ったところの棚に「蛇の干物』とでも言うのだろうか、乾燥させた蝮を三匹厚紙に並べ、ビニール袋で包装され置いてあった。値段はと覗いたところ9千円とついていた。蝮も貴重食品になったのだナァ…と思いながら、お店の方の推奨品である漬物だけを買って店を出た。

 私が小学校に入学したのは終戦の翌年である。その頃の想い出といえば米軍機による爆弾投下と食料不足である。特に食べる物は、全くといってもよいほど無かった。そのせいかどうかは定かではないが、小学生の頃は、身体は小さく、虚弱体声質でひ弱であった。

父は、親として体質の弱い子供をなんとかして元気で丈夫に育てたいと願ったのだろうが、さりとて、育ち盛りの子供に十分な栄養のある食料を求めるすべなどなく、その代わりの栄養補給源を野山の動植物に求めた。育った処は住所に山下とついているように、山の麓の村で自然環境には恵まれており、その補給源の植物は山芋(自然薯)動物は川魚や蛇(蝮とシマヘビ)などであった。蛇をみかけることは多くあっても蝮に出会うことは少ない。そこで、父は隣近所の山仕事をしている方や農家の方にお願いしていたらしく、時々、生きた蝮をもって来てくれた。勿論、お金など払うことはない。首のところから皮を剥ぎ、内臓をとり水でよく洗ってから串にさし、炭火でゆっくりと焼いた。よく焼けた蝮を2pぐらいに鋏で切って、朝夕のいずれかに食べさせられた。初めは半強制的であったが、慣れるにしたがって、美味しく味わって食べることもできた。

 その後、戦後の復興に伴い、食事の内容も改善され、人間の成長に必要な栄養も十分に満たされるようになった。現在の私は、成長期の栄養不足が影響してか、身長、体重ともに平均には少々足りないものの健康である。

 今まで、数組の双子の兄弟、姉妹に出会う機会があった。不思議に思うことがある。それは、同性の兄弟、姉妹の顔かたちなどの体型が極めてよく似ていることである。

 高校時代の級友に双子の兄弟の兄がいた。弟は20kmほど離れた隣の市にある学校に通っていた。ある休日、街を歩いていたら級友が向こうからやって来た。声をかけてみたのだが全く反応がなく、ただ私の顔を見ただけで通り過ぎていった。後で判ったことだが、出会ったのは弟で私とはその時が初対面である。また、過去に3年間授業をもったクラスにも双子の兄弟が学んでいた。この兄弟の名前と本人の区別は卒業するまで、ついにできなかったほどよく似ていた。

 人間の顔かたちや身長、体重などの体型は、生まれてから20才ごろまでの栄養摂取状態や運動量などが相互に関係して、徐々に形作られ、個人差が生ずるものと思うのだが、双子の兄弟が成長する過程において、栄養摂取量や運動量などが同じであるなどあり得ないことだろう。このように考えると、人間の体型は、食べ物や運動量などではなく、この世に生命が与えられた時に決まるものなのだろうか?

 いずれにしても、野草や蛇を食べていたのでは長生きはできない。長生きするためには、バランスのよくとれた食事が絶対条件のような気がする。


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