福島県教育センター所報ふくしま No.85(S63/1988.2) -008/038page

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<随想>

応える

教育相談部   松本 喜男

 以前私が農業高校に勤務し、農業教育の末席で花き栽培の部門を担当していたときのことである。

 あれは、灼熱の太陽が降り注ぐ暑い日のことであったと思う。酷暑による温室内の植物は、乾きのためにグッタリとし、水欲しさの「あえぎ」にも似たような光景を目の当たりにし、さぞかし水が欲しかったろうと植物の心を察するものがあった。

 早く水をやらなければ枯死に至らしめる結果になってしまう。早く当番の生徒が来ないかと待ち遠しくも思えたのである。

 しばらくして三人の温室当番の生徒がやって来たが、なんとその中の一人に、校内はもとより校外においてもいさかいを起こしたり、何をさせても中途半端で責任感に乏しいA男の姿があった。

 途端に私は、このA男に植物にとって命ともいえる「灌水」をさせたらどうなるんだろうと疑わざるを得なかった。

 しかし、温室は広くしかもすべての植物は乾ききっている。やはりA男にもやってもらおうと腹を決め、「灌水」が始められた。それから30分ほどたったであろうか、各温室の状況を見て回るとA男もどうやら丁寧にやっている。一通りの「灌水」が終え、最後のミーティングをしているときA男は突然次のようなことを言い出したのである。
「先生! 植物ってめんこいない !あんなにグッタリして水を欲しがっていた植物に、思いっきり水を飲ませてやったら、生き生きしてきたよ!俺たちがしてやったことに 応えて くれるんだもんない!」

 A男からまさかこのような言葉が聞けるとは思ってもみないことであり、ただただ驚くばかりであった。いやしくも教師として、問題行動があるからと言って、生徒を別な目で見ていた自分が非常に恥かしく思えた。

 考えてみれば、仕事そのものは植物に水をかけるだけなのに、このような体験がこれほどまでに生徒の心を動かしているかと思うと、体験的に学ばせる重要性を改めて思い知らされたような気がする。

 農業教育といえば、たしかに知識・技術の教育でもあるが、しかし、忘れてならないと思うことは、常に動植物、つまり「生きもの」を相手とする教育であり、しかも、その教育の根底にあるものは、「生きもの」を思う「心」の教育であるということではないだろうか。

 先のA男のように、相手の痛みを知り、自分の真心で植物を生き生きとさせ、植物が応えてくれたという感動のドラマは、A男の心を大きく揺さぶったにちがいない。以来私は、「体験なくして教育はない」というささやかな願いを持ち続けている。

  さて、我々教師が生徒に応えるということはどういうことなのであろうか。それは、ちょうど水欲しさにあえぐ植物に水を注ぐと同じように、今一人一人の生徒が欲しがっているものは何なのか今与えてやるべきものは何なのかをしっかりと見定め、それを満たしてやることではないかと思う。

 そして、生徒の心を耕し、その心に良質の「種」をまけば、生徒自身の個性がその「種」を発芽させ、いつしか大きな実をつけることにつながるのではないだろうか。

 したがって、我々教師は、生徒の心にどのような「種」をまくことが生徒の願いに応えることになるのかを常に問い続けなければならないと考えるのである。


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