福島県教育センター所報ふくしま No.87(S63/1988.8) -003/038page
説いている。
ところで,このような「人間教育」の思潮は,どのように変遷したのであろうか。一般的には,明治5年「邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめん」とした太政官布告によって「学制」が敷かれ,近代学校制度の発足以来.教育の画一化に走ったものと考えられている。
わが国の学校教育制度は,日本社会の近代化を至上としたものであったから,平等・公正の原則を重視し国民全体の知的水準を高めようと努力したことは事実である。平等・公正の原則が画一化への萠芽を宿していることも認められよう。したがって大局的な見地からすれば,学制施行が画一化を招来したとする見解は否定されないといえるのである。
しかし,明治6年に東京師範学校から出された『小学生徒心得』には,授業の文字が一切使われず,受業の時刻,受業の時限,受業中などすべて受業とされていたし,また明治9年文部省印行の『学室要論』の名が示すように,教室ではなくて学室(学ぶ部屋)であったこと,さらに明治14年文部卿布告の『小学校教員心得』にも,教員たる者は生徒の信憑を失ってはならぬ旨が説かれ,明治18年までは,クラス編制の考え方をとらず,飛び級など個の学業の進度に重きを置いていたことからも,学制施行が直ちに画一化に結びついたとは断言できないのである。
大正期は,いわゆる新教育運動が活発に展開され,自動教育・自学教育・自由教育・発動主義・能動主義などの開花を見たことは周知の通りである。昭和16年,国民学校理科の授業においては,「理解させてやる・わからせてやる・授けるという態度から,わかる・体得する・創造させるという態度をとること」が強調されているし,昭和20年に文部省がまとめた『画一教育改革要綱』には,生徒の自発的学習並びに自治的訓練の促進・個別指導の配慮・教科の画一性の是正などが提唱されている。
以上のことからもわかるように,個性化の問題は,学校教育が常に宿してきた実践課題であり,難儀な仕事なのである。したがって,この課題に取り組むに際しては,1,学校教育の体質が,個性を認め生かすというよりは,個性を均(な)らす規格化する方向に走りがちなものであることの自戒,2.個と集団とのかかわりの問題,3.基礎・基本の習得と個性重視との関係,4.自己教育力の育成・生涯学習と個性化などについて,吟味してみなければならないのである。
中国の書の修業においては,求同求異の調和ということが重視されているといわれる。求同とは基礎・基本の習得・修練を指し,求異とは独自の境地・個による創造を意味するという。また中国には,五講四美という古い諺があるとも聞く。講は集団を指し,講の望ましい状態を持するには,友情・瓦恵・信義・礼儀・規律を重んじなければならないのである。そして,個はその行為と品性と言語・態度の四つにおいて常に美しさ・良さを保つことが大切なのである。均質化(求同)と個性化(求異)の調和,集団(五講)と個(四美)のあり方を探ることは,学校教育の現況に照してみても必要不可欠なことではなかろうか。
「のために」から「とともに」へ
個性を重視する教育は,かけがえのない個に根ざす教育であり,個のすばらしい生命の息吹を感得する教育であり,子どもの学び・生きる志を尊ぶ教育である。個別指導をも包摂して,子どもの人間形成と学業成就を支え励まし達成の歓びをわかち合う教育である。
個性重視の教育においては,子どもの学びに対する教師の思いやりの探さと手だての豊かさ,その断続的なはたらきかけが支えとなって,子ども自身が,自らの学びを“動機づける”ことを身につけ,それを保ち続け,耕し培いつづけることが肝要なのである。
このような教育は,子どものためにというよりは,子どもとともにという共学共育の姿を見せることになる。コウ学半(こうがくなかば)すといわれるように,教師もまた授業を通して学びつつ自己更新をとげて成長する。ここに創造の歓びがある。