福島県教育センター所報ふくしま No.89(S63/1988.12) -003/038page
なことであって,信ずる者には柔らかさが不足してかたくなになりやすいし,柔軟に過ぎる者においては確信が不足して依存牲が強くなることが多い。
その故であろうか,先生の研修の課題は適度な柔軟さを身につけることであり,その柔軟さを保つためにこそあるとの論に触れたことがあるが,如何にもとの感を深くする。
ところで,いうまでもなく児童・生徒においては,心身の成長も著るしいし,それに伴って社会的地位も変化し周囲の対応もそれに応じて変わってくる。とりわけ,思春期においては性的な成熟と急激な身体的発達があり,周囲からはおとな扱いされたり子ども扱いされるという不安定な地位に置かれる。そのような変化を受け入れ,その変化に応じて自他共に納得されるような新しい行動様式を身につけることが,重大な課題となる。変化の著るしい時期ほど,対応すべき変化は重大であり,その対応が適当でなければ,学校生活への適応も困難になりやすい。
例えば,昭和30年の頃より注目されはじめ,今日においても非常な注目をあびている子どもの問題に登校拒否がある。その子どもたちが登校拒否をはじめるのは,4月,5月の連休明け,9月,1月,学校行事の前後,月曜札 病後などである。そのことは,彼らが節目に弱いことを物語る。その節目とは,それまでの行動の流れを切って,新しい行動をとることが期待される時点としての意味をもつ。その節目が求める変化への柔軟な対応力の不足を,登校拒否に感ずるのである。しかしながら,登校拒否の子どもの多くが再び登校するのは,彼らのつまずいたその節目からであることも注目される。節目はつまずきと立直りの二つのキッカケを有する。その故に危機であるともいえるのである。そして,登校拒否以外の,例えば自殺や家出,放浪などもまた,この節目に多いという事実,反面,子どもばかりか成人においても,この節目を契機として心新たな出発を期するという事実は,節目が教育指導の観点として無視できないこと,そしてその節目への対応においては,やはり柔軟さが重要な役割を果すということを示唆すると考える。
その意味でも,柔軟さを子どもにということは,親や先生における重要な課題であろうが,そのためには自覚が期待される事項がいくつかある。その一つは,児童・生徒の発達段階においては,発達と共に柔軟さは形成されていくのが,一般的ということである。新しい対応を必要とする状況では,まずは硬い反応が生じ,やがてより柔らかな反応へと変わっていく。そんなことの繰り返しの中で,発達と共に柔軟な態度は一層と身についていくのである。そのような成長への信頼が,まず,親や先生に期待される。
第二には,発達と共に柔軟さがとはいっても,それを可能とするのは,子どもたちの日々の生活のありようである。かかわりのある先生や親,そして友人と安らぎと張り合いのある生活があるか,そして先生が提供する学習活動に深く興味づけられたり,努力の成果を味わうことのできる生活があるか,そして人や学習とのかかわりで時間の経過を忘れるような時間体験がどれほどあるか,ということが課題となる。これらの生活において,十分な自己発揮の体験のあることが,柔軟さの形成に重大な意味をもつのである。
そして第三には,先にも触れた親や先生における柔軟さの問題がある。それに不足するおとなの態度に,完全主義がある。子どもに対して,何事によらず100%を求める態度である。80%をもってよしとすることも多いのにである。その態度が極めて問題傾向の多い子を育てる要因となりやすい。「教え上手で,やさしくて,けじめのある先生」,それが全国健康優良学校の代表児童たちの声であった。そのような期待に応えられる先生は,やはり柔軟さのあることが基本的条件となる。
以上,人間における柔軟さの必要性について,概観した。その詳細の吟味は他日を期している。