福島県教育センター所報ふくしま No.90(H01/1989.2) -002/038page

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特別寄稿

文 化 財 の 認 識・保 護・活 用

福島県文化財保護審議会会長 山口 弥一郎

1.はじめに

 私は会津中学を卒業するまで郷里を離れることはなかった。師範二部1か年中通りの福島市に住み,大正14年磐城高女に転じ,浜通りの風物に接し,ここで15か年,地理学と民俗学の基礎的勉強をした。そのフィルドは東北地方で,特に北上の山村,三陸海岸の漁村であった。一つの目的は旅の目に見える学問より寄寓しての生活を共にしての体験で学ぶためであった。

 終戦後,郷里会津に戻って,磐梯山を改めて仰ぎ,山麓恵日寺の信仰を知った。いくらか目が明るくなっていたのであろう。基礎学問のお蔭かと思った。

2.文化財の再認織

 会津坂下町青津の亀甲舘は,居舘には規模が小さく,形が前方後円墳ではないかと疑義を持った。しかし私は考古学を基礎的には学んでいない。畿内に行って多くの古墳を検分し,自信を得たので,当時会津農林に勤めていたので,林業科の先生・生徒の援助を得て,全長127メートルの前方後円墳と断した。北会津村の田村山古墳は出土品もあり,ついで大塚山に目をつけて会津若松市の農政課に依頼して実測発表した。後に伊藤信雄氏が発掘して貴重な出土品を確認した。やはり専門家の業績は強いと感じいった。

 昭和32年福島県文化財専門委員になり,担当は新しい分野としての民俗資料,特に民俗芸能であった。38年より東京に出て,亜細亜大学・創価大学を歴任し,この3月には米寿にも達することであり,退職・帰郷して,再び手がけた東北地方の郷土研究をしようと思っている。

 その間文化財の保護審議委員は継続しており,年長の故か,議長が会長と名称が改められて,20年間その重責にある。数多く郷里会津と東京を往復するが,白河南の県境をはいると,責任者として何か見落しているものはないかと,目を見張る思いである。

 認識,再確認して,指定保護すべき貴重なものは見逸してはならないと思っている。文化課は東北各県に先鞭をつけるように早く申請してつくってもらった。当時福島県史編集の事業もあり,県下を相当廻る機会もあって,各方面の文化財にも目を通るようになったが,その価値認識になると,県下だけではなく,東北大学,中央からも専門委員を依嘱して間違いがあってはならないと,たえず自戒はしているつもりである。

3.福島県下の文化財分布の特性

 どうも福島県は東北地方の南部地域,関東・越後文化の北縁にあって,その古くからの伝承経路に相当なちがいが見られる。俗に浜通り・中通り・会津地方と呼んで,いくらか文化的特性を異にしているように見える。この3地域の間にも,阿武隈山地地域,奥会津地域には若干の異彩が認められるようである。

 古墳文化・貝塚遺跡は浜通りに目立つ。会津地方には寺院・仏像の仏教文化が多い。阿武隈川流域の中通りには,東北文化のコリドールのような,中央北漸路としての貴重な文化財が集積している観がある。

 文化史上顕著なものは相当指定もされ,保護されているが,阿武隈山地の古い岩石・地層,会津地方の火山地形などに見られる自然的なものは,植物などと共に,若干貴重さを軽視されてきたようで,この認識・保護は大切である。

 自然の貴重な文化財は,開発が進むにつれ,経済的価値が軽視され勝ちで,その保護は勿論,一般の認識も大切である。

 私の担当は生活文化の有形民俗資料,民俗芸能などであるが,いくらか再認識はされてきたようで


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