福島県教育センター所報ふくしま No.91(H01/1989.6) -003/038page
者のかかわりをおさえることができるであろうし、「現職研修」なる用語も、引用1、引用2によって現に用いられていることも明らかになったわけである。もっとも「現職研修」なる用語は疑う要は一般にはないのであって、何を今さらと筆者の不敏さが哂われるのかも知れない。それはとにかく教職にかかわって「現職研修」なる用語が用いられているが、他の職種においてはどうであろうかは、筆者には不明である。もちろん、用いられて支障のあるはずはないであろう。
さて、われわれは、視点を教師の研修にすえながら、その本来性をあらためてたしかめることにしよう。「現職研修」は現に教職にある者の研修という意味においてである。
(2)研修の本来性
研修という用語は、漢語として漢和辞典に採録されてはいなかったようであるし、和語としても国語辞典に採られてなかったと思われるが、最近のものみは両辞典とも収録されている。教特法以降であるだろうか。時代の要請が感じられるというものである。筆者の所有する最も新しい三省堂の大辞林(1988年11月)では、「学問・技能などをみがき修得すること。特に職務に対する理解を深め、習熟するために学習すること。」とあるが、まずは標準的な解説とみることができようと思う。教特法においては、研修ついて、周知のように「教育公務員は、その職責を遂行するために、絶えず研究と修養に努めなければならない。」と規定してある。
辞典の解説も法文の記述も、」研修そのものの性格が、研修する者の自主的な研修行為を合意しているとみることが真っ当であると考えないわけにはいかない。すでに述べたように(引用4の下線部分)研修本来の理念的意味は、自ら学ぶ教師のみが人を教える権利があるとする自己研修を基底とする考えであるとすることに賛意を表するものである。ただし、「教える権利がある」というより、「教える責任を果たすことができる」と覚るべきである。
ともあれ、研修の本来性は、その自主的な研究と修養、自己研修の行為にあるとすることができよう。なおとくに教特法は研究と修養とを期待しているが、その修養に意を向けることをおろそかにしてはならない。それは、人格性の真摯な洗練を意味するのであるから。
(3)教師が教師として育つために
(2)において考察したところから、教師の研修は、教師の教師としての自己教育を鋭角的に表明するものとも言いうるであろう。
それはそれとして、今日学校の教師は、養成・採用のプロセスを辿って、「教師である」ことになったわけであるが、現に「教師である」という存在地平にとどまることであってはならない。絶えず「とりよい教師である」ように、現存在の地平を脱け出して高まる者でなければならない。その在り方は、「よりよい教師になる」ことであり「教師として育つ」ことに他ならない。教師として育つためのエネルギーは、研修によってみずから獲得する以外にないということは、今さらことごとしく言う必要はないであろう。
ところで、今日の時運において、学校の教師はどのような力量が求められているのであるか。このことに実践を似って答えるところに、今日的な教師の育ちの実際があるのでなければならない。
それは即ち、具体的には新教育課程の基準の改善のねらいとして示されてある各項に十分対応できる力量であり、より具体的には、ねらいの示すところに従って授業を改善・運営することのできる力量が洗練されるということである。ところでその中に、とりわけ情報技術を運営する力量が今後重要な位置を占めることになると主張する向きがあるが、方法論的に不可欠の課題であると思う。
(教育展望1989年4月号、P.21、教育調査研究所、参照。)なおしかしながら、教師は「教える」という根源的役割の本質につねに正しく還帰しつつ絶えず新たな出発をしていかなければならない。すなわち、「教える」とは、「学ぶ」働きを助け、強め、支えて成し遂げさせることであり、それを人類史の創造的展開の方向において実践していくことである。このことを忘れてはならない。