福島県教育センター所報ふくしま No.95(H02/1990.6) -003/038page
の原因とみてよいであろう。ところが認知心理学の佐伯胖畔氏によれば,現状の教育界には「理解に関する誤解」があると言う。そのことが事態改善の方向をもきわめて見えにくくしているように思われる。
氏によれば,「理解」とは「関連する世界が広がること」だと言う。いろいろな事柄との関わりをとらえることこそが「理解」することだ,というのである。まことに示唆に富む指摘である。
そうだとすると,「理解」にはもともと「総合性」や「相互性」は欠かせない要因のはずである。だから断片的な知識はいかに「確か」であっても,それだけでは「理解」されたことにはならないのである。
面積と体積との「関連」や,角柱と角錘との「関連」などをとらないで,体積を求める公式だけを「確か」に暗記しても,それを「理解」したことにはならない。それら相互の「関連」をとらえていれば,四角形の面積を出せる生徒ならば,体積は高さをかければよい,角錘は角柱より体積が少ないはずだから,あとは何かで割ればよい,などの見当はつきやすいであろう。
東大寺の「大仏がつくられた目的」にしても同様であろう。例えば,大仏の建立が当時いかに大事業であったかに「関連」させれば,それが時の政治にとっていかに重要な意味を持っていたか,さらには政治と仏教との関わりへと,「関連する世界」は広がるであろう。それこそが歴史を「理解」することだ,ということになる。
そうすれば,「大仏がつくられた目的」 に関する手がかりも得やすくなるであろう。「歴史は暗記もの」と見るかぎり,総合的学力は不要であり向上もありえない。
3.「わかる」とは「感じる」こと
また,脳生理学の品川嘉也氏によると,「わかる」(理解)とは「感じること」だと言う。感じられた内容が自然に記憶されることは言うまでもない。したがって,よく「理解する」ことと,確実に「記憶」することは明確に異なるのである。
例えば,「四角錘の体積」の求め方を「理解」するには,「底面積と高さをかけるところまでは角柱と同じだな」とか,「三角錘も四角錘も同じじゃないか」など,生徒自身が「感じる」ことが必要なのである。東大寺についても,「あんなバカでかい大仏をつくるのは大変だったろうな」とか,「どうして仏教なんかそんなに重要だったのかな」とか,本人が何かを「感じる」ことが「理解」することだ,と言うことになる。
また,このように,「感じる」ことによって,それとの関連でさまざまなイメージができやすくなる。そして,イメージができることは総合性や相互性を生み出す大きな要因にもなるのである。(詳細については,抽著[人間形成をめざす授業のメカニズム』黎明書房(平成2年5月)をご参照いただければ幸いです。)
「総合的学力」を育成するためにはこれらの点からの再検討が必要であり,少なくとも,宿題の量やテスト回数を増やすだけでは育成されえないであろう。