福島県教育センター所報ふくしま No.99(H03/1991.6) -002/038page
特別寄稿(論説)
いま問われる教師の力量
早稲田大学教授 梅 澤 宣 雄
今日ほど、教師一人一人の能力が如実に問われている時はこれまでおそらく無かったのではないで しようか。
このところ学校教育の場における相次ぐ不祥事はまことに残念なことです。登校指導という名のもと に引き起こされた「閉門圧死事件」、自殺までにも追い込んでしまった「葬式ごっこ」、校長自ら率先 しておこなってしまった「入試答案の改ざん」。これらは、いずれも想像を絶する論外な事件であると 言えるでしょう。
それほど顕著な事例とはならないまでも、「良かれ」と判断して行った指導が全く逆の結果を生む、 と言ったことはむしろ日常的に経験しているのではないでしょうか。充分議論も尽くし準備をして「 教育的配慮」のもとに実施した(と思っている)ような場合には、感ずる空しさもとりわけ大きなもの となるものです。もとより児童生徒は生身の子ども達です。教師の及ぼす影響力には計り知れないもの があります。同時に学級やグループなどさまざまな集団の力に支えられた一人びとりでもありますから 、その時々の雰囲気やムードにも敏感に反応するものです。そうであるならば、昨日うまくいったから 今日も全く同じやり方でうまくいく、という保証はないのです。その意味で教師の仕事は日々これ正に 気の抜けないしんどい稼業と言わざるを得ません。
自主性と指導性のバランスは大変むずかしい問題です。ことごとく指示し命令してそれに従わせるやり かたは、計画を予定通りに消化して行く上では効果的であるかも知れません。しかしそれでは、自ら考え 創意工夫して問題の解決に努力すると言う力は到底養うことは出来ません。
特にいま中学校で、校則見直しの作業が注目を集めているようです。顔かたちが違うように、髪型だっ て似合う似合わない、好き嫌いが当然あるはずです。服装だって年齢に応じたTPOの基本を理解して、 その範囲での個性化を図ることが出来るようにならなければならないはずです。規則による画一主義は、 このような教育の機会を完全に放棄するものであると言えるでしょう。
学校という一つの社会をうまく機能させて運営して行くためには、やはり組織や集団としての規範が必 要であることは言うまでもないことです。行動のよりどころとしての基準や標準を設定して、それを基に 適切な機会をとらえて指導することも大切です。しかし、校