福島県教育センター所報ふくしま No.109(H05/1993.11) -003/038page

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今ではこれが特別講義と共にこの講座の特色になっている。「夜の部」の設置は,私が8年間勤めた労働省所管の職業訓練大学校(現職業能力開発大学校)から東北大学に移って間もない頃のことである。職訓大の初代校長成瀬政男博士(東北大学名誉教授)は歯車の権威でペスタロッチの研究者であった。博士は,職訓大の建学の精神が科学・技術・技能の結合にあるとし,「応用理学として導入された日本の工学は,技能労働者の中から,自ら体得した技能を科学者,技術者との交わりを通じ,記号を以って表現できるようになり,やがて学位論文を書ける者が現れない限り,真の工学にはなりえない」と主張し,技能の名人,理学博士,工学博士,教育学者を糾合し,教育学専攻の私達には,「理論と実技」「座学と実習」の結合の方法について考えよ,といっていた。そのような前歴もあって,私は以後17年間,の講座に深い関心を寄せ参加してきた。モノづくりの学問と「人格の完成をめざす」教育の学問,教育学との違いは一体何なのか,問いながら。「自他の敬愛と協力」によってこそ「人格の完成」は目指されるとは,教育基本法の明示する理念である。年にわずか一回ながら,ベテラン先生方との夜を徹しての交わりは私の学問の未熟さを暴露する,実に恐いものであった。それだけに17年間で気づかされ学びえたことは極めて多い。紙幅の制約から以下の二点に絞り,摘記してみたい。

まず工学と教育学との違いである。モノづくりの場合,よくわからないのに,たまたま出来てしまうことがよくある。これを職訓大では「技能」と呼んでいた。なぜかを問い,それを定性的,定量的に分析してゆけば,それは「技術」知として客観化され,その具体的技術知の整理体系化されたものが「工学」であると彼等は観ていた。たまたまではあれモノが出来る以上,「偶然に先立ち必然がある筈」との確信がそこにはあった。しかし人間が人間になってゆく事実には,なんと「必然に先立つ偶然」が多いことか。ベテラン先生方の児童・生徒の生活指導,進路指導の苦労話でその感を深めた。たまたまの出会いが彼等のその後を方向づけ意味づけてしまうことが多く,そこに先生方のよろこびも悲しみもある。この事実に気づき,その上でままならぬ数多くの児童・生徒一人ひとりを「あまた」とみ,一人の教師(わたくし)が心を全開し,彼等に向き合おうとすれば,たちまち燃えつきてしまうことになる。こうした事例を聞くたびに,教育学の頼りなさを痛感し,その成立への疑いさえもが念頭をよぎった。科学としての教育学というものは,その根底において「あなた−わたし]の関係を問う学問でありながら,それを客観的に記述しようとすると,その熱い関係をも「わたくし−それ」の関係に置き換えて見ざるをえない。またどんなに事例を集めそれを整理し体系化してみても,それは全て「過去」のもの。「現在」先生方が直面する具体的個別的な問題に直接応えるようなものにはなりえない。そうも思われたりした。しかし回を重ねるうちに次のような寄与もあることに気づかされ,勇気づけられてきた。その励ましは児童・生徒相手のままならぬ日々のあれこれから解放さ


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