福島県教育センター所報ふくしま No.111(H06/1994.6) -002/038page

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特別寄稿(巻頭論説)

福島大学教授  庄司 他人男

学 力 問 題 を 考 え る 視 座




福 島 大 学 教 授 庄 司 他人男


はじめに

今日の学校教育は,これまでの知識詰込み型の学力観を抜本的に見直そうと,「新しい学力観」が提起されているにもかかわらず,異常ともいうベき受験戦争の嵐はいっこうに衰える気配がなく,せっかくの「新しい学力観」も行く手を阻まれて,大ピンチに立たされている,という状況にあると言えよう。異常さの一端は西沢潤一氏(東北大学長)も憂慮するように,「数学さえ暗記科目であるという認識がまかりとおっている」(『人類は滅亡に向かっている』潮出版,1993・12)ことに典型的に表れている。

この知識詰め込み型の学力観は,その本質において開国以来の先進国に「追いつけ追い越せ」を目的とした後進国型学力観の延長線上にあることは既に多くの人が指摘しているところである。加えて,受験競争で下位群におかれている諸県では,受験学力先進県に少しでも追い着こうと,二重の後進性に悩んでいるのが実情である。

もとより,われわれも真の学力を向上させることに些かの異論もないが,現状のままでは「新しい学力観」の趣旨が十分に生かされず,21世紀に生きる真の学力も身につかなくなるのではないかとの危倶の念を禁じえないのである。

ここでは,そのあたりの問題点を私なりに整理し,若干の提案を試みることとしたい。

1.「新しい学カ観」は時代の要請

上に述ベたような今日の教育状況を踏まえるならば,「新しい学力観」が提起されたのは自然な時代の流れで,むしろ遅きに失したとも言えよう。じっさい,「新しい学力観」という言葉こそ見当らないが,その考え方は「人間性豊な,ゆとりある教育」を目指した前回(昭和52年)の学習指導要領改訂でもすでに提起されていたのである。それにもかかわらず実現されなかった背景には諸種の理由はあろうが,わが国では後進国型学力観がいかに根強いか,さらには,それを実現する筋道を明確に提起することがいかに難しいかを物語るものであろう。

それ以上に,いわゆる「戦後新教育」の時代には現在の「新しい学力観」に極めて近い考え方がすでに行われたのである。

ところで,長い鎖国政策に終止符を打ち,開国に踏み切った明冶新政府は,欧米先進国の知識(文化や科学技術等)を早急に取り入れるために学校教育の整備に大いに力を注いだ。それから100年の学校教育が今日の日本の発展に大きく寄与したことは,今や世界の常識となっている。こうして,


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