福島県教育センター所報ふくしま No.111(H06/1994.6) -003/038page
創造的・主体的な学力よりも,先進国の知識を効率的に吸収しようとする「後進国型」学力観が根強く定着するに至ったのである。
吸収すベき知識を既に完成されたものとしてとらえ,それを網羅的,能率的に整理したのが教科書である。したがって,児童生徒に自分で考え,自分で工夫させる教育よりも,「教科書をおぼえ」させる教育が支配的になったのは必然である。世界に冠たる教科書中心型の教育は,このような過程で形成されたのである。
ところが,今日では経済や文化も発展して,海外にそのまま吸収すべきモデルを求めることができなくなり,さらに生涯学習社会も現実のものとなって学ぷ意味の根本的な問い直しが迫られている。今や,これまでのような「後進国型」学力観をそのまま維持するだけでは,これからの時代に対応することは不可能になっているのである。
世界的にみても,これからが日本教育の真価が問われるところであろう。
しかし考えてみれば,もともと「教育とは文化の伝達と創造」だと言われている。この鉄則をいつまでも無視して,「文化の伝達」のみを目的とする知識詰め込み型に固執することは,決して望ましいことではないはずである。
「新しい学力観」は今や時代の要講であり,これこそ天の声と言えよう。
2.「新しい学カ観」の意義と課題ところで,「新しい学力観」といっても決して一枚岩ではないが,おおよその特徴としては以下のような点をあげることができよう。「知識・理解」よりも「開心・意欲・態度」を,学習の結果よりもその過程を,教育の目標や内容よりも子供の興昧・関心を,指導よりも援助・支援を量要視し,それによって自己教育力の育成を図ろうとする学力観である。
そうだとすれば,これは今日支配的な知識詰め込み型の学力観の根本的な見直しを迫る重要な側面をもつことは明らかである。しかし,これまでもこのような学力観が提起されたことがなかったわけではない。これに極めて近かったのが,先に触れた第二次大戦後直後のいわゆる「戦後新教育」(昭和20年代)であったと言えよう。
その意昧では,これは特段新しいものではない。しかし,その当時と今日では社会的,教育的諸条件が大きく変化しているので,昭和30年代40年代のそれと区別するために,今日それを「新しい学力観」と呼ぶのならば,それなりの意義は十分に認められてよいであろう。
それだけに,ここで見落としてならないことは,「戦後新教育」がやがて「はいまわる経験主義」などと批判されて,昭和33年の学習指導要領改訂では全面的な見直しを余儀なくされた,ということである。とすれば,いかに社会的,教育的諸条件が大きく変化したとは言っても,この度の「新しい学力観」もその利点のみを強調するのではなく,それが克服すべき課題をもしっかり見据えないと,同じ失敗を再ぴ繰り返す危険性は依然として残る,と見なければ