福島県教育センター所報ふくしま No.111(H06/1994.6) -005/038page

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解」を記憶させるだけでなく,それに関して学習者自身が,できるだけリアルで豊かな「イメージづくり」ができ,それと他の事実・事象との「関連づけ」を広げ,それらを通して自分なりの「意味づけ」をすることが重要になる。

実は,これこそが「理解する」ということなのである。したがって,単に「記憶する」ことと「理解する」こととの,この基本的な違いは決定的である。ここで確認したいことは,事実・事象は一つであっても,個々の学習者が作り出すそれら三つの側面は決して画一的にはなりえないということである。「理解する」ということには,共通する部分も当然あるが,おのずから個性的にならざるをえないのである。

学習がこのような過程で進められれば,その事実・事象については記憶(暗記)も促進されることは言うまでもない。その最大の理由は,本人にとって「意味があることには長期記憶がはたらく」からである。

また,数学を暗記科目としてとらえることの問題も,そのメカニズムは同様とみることができよう。もともと数学とは論理と直感(イメージ)の相乗作用によって思考力が発展する教科である。にもかかわらず,暗記中心になると直感や「イメージ」の側面がほとんど働かずに済まされやすいのである。「イメージづくり」が伴なわなければ「関連づけ」も起こりにくく,「意昧づけ」もしにくい。西沢氏が憂慮するのは当然である。これでは,多くの生徒にとって数学はそれ自体まったく意昧のない,入試を突破するための必要悪ないし障害物にすぎなくなるのは必然である。

このような歴史(社会科)や数学における学力の問題点は他のほとんどの教科について言えることである。これでは生涯学習への発展などは望むべくもないであろう。

こうみてくると,受験直前の追い込みの時期は別としても,小学校6年間,中学や高校の3年間というスパンで見た場合,「意味づけ」「イメージづくり」「関連づけ」の極端に乏しい暗記中心主義の授業が,本当に受験に有利なのかどうか,改めて問い直す必要がありそうである。

発展的学力の形成にとって有利でないことだけは明らかであろう。

4.「受験の神様」は授業の「神様」

「新しい学力観」に関する取り組みの現状を大まかに見るならば,入試のことを直接気にすることのない小学校では極めて積極的であるが,入試の厳しさを乗り切らなければならない中学と高校では,これに少なからぬ戸惑いを感じている場合が多いようである。当然のことであろう。

しかし,これには既に述ベたことから明らかなように,両者に課題があるように思われる。前者については,学力低下が今のところ表面化していないとしても,このままで本当に大丈夫なのか,ということである。そして後者にっいては,知識結め込み型の授業が本当に受験に有利なのか,ということである。

先ごろの国会で南京大虐殺に関する発言


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