福島県教育センター所報ふくしま No.111(H06/1994.6) -006/038page
で法務大臣が更送されるという事件(?)が発生した。これを受験学力として見るならば,その大臣は南京大虐殺が起こった年号を間違えたか,正式名称を言い間違えたかで首が飛んだ,ということになる。受験学力にとって最も重要なのは正確な年号や事件名であって,中国の人々の心の痛みや日本国民の歴史意織などの歴史を学ぷ意義(「意味づけ」)では決してないからである。実際,そのような「意味づけ」などは,少なくともコンピュータ処理の入試問題としては出題しようがない。
では,入試問題に出ないようなことは受験指導では無駄なのだろうか。生徒のほとんどは無駄だと考えているようである。もちろん,そうではない。この前ある新聞で「受験の神様」と言われた先生の話が紹介されていたが,これをしっかりと指導できたのが「受験の神様」先生ではないだろうか。
とりわけ,最難関の大学入試を目指すような成績最上位の生徒をさらに伸ぱすには,それを無視してはならない。教師の指示どおりの勉強しかできないようでは,たとえ最難関の入試を突破しても,そこから先の成長は期待できないであろう。実際,近年このような受験学力秀才が多くなっていることは事実のようである。それでもなお,そのような受験学力を高める必要が,もしあるとすれば,それは誰のため,何のためであろうか。
先の「受験の神様」先生は,引っ越しの時にトラックに2台の蔵書があったと言う。その大部分が受験指導用のマニュアルであった,などということはありえようか。私は,その先生は「受験の神様」である前に,まず「授業の神様」であったとしか考えられないのである。
授業の充実に勝る受験対策はないのである。
5.本県学カの特微と課題大学入試の成績が,入学後の学業成績とほとんど無関係であることは,すでに証明ずみである。西沢氏も,「偏差値一辺倒」の勉強になっているために,それらが「ほとんど対応しないという追跡調査はすでに数多くなされている」という。福島大学で行った昭和61年と62年の追跡調査にもそのことが明瞭に表れている。それによると,共通一次と一般教育科目とはやや関連が見られるが,専門科目との相関はほとんど見られないのである。
これは本県の受験生にかぎることではないが,受験学力がその後の学習に対する「関心・意欲・態度」につながっていないことを見事に証明するものである。「新しい学力観」の意義はまさにここにある。
ところで本県の場合,入試センター試験でみるかぎり,とりわけ数学と英語の成積が不振であることが,そのまま大学入試成績の不振につながっているようである。これら2教科が点数の差が開きやすいことは以前から指摘されてきたことである。だから佐賀県の新設間もない私立高校では,それらの科目の授業時間数を基準の2倍にし