福島県教育センター所報ふくしま No.115(H07/1995.7) -002/042page
特集・授業者の心
授業から≪教育愛≫を考える
福島大学 庄 司 他人男
はじめに
≪教育愛≫というと,とかくお説教じみて敬遠したくなり,「今どき,教育愛もなかろう!」などと受け取られそうに感じるのは私だけであろうか。というのは,貧しい孤児と寝食を共にした大教育者ペスタロッチがその権化としてあまりにも有名だからである。世はまさに飽食の時代であり,コンピュータの時代なのである。
そうは言っても,赤ん妨は母親の愛なしには成長することができないばかりか,生きていくことすらできないことを思えば,子どもが「求める愛」と親が「与える愛」が時代のいかんに係わりなく重要であることは明々白々である。そして,これこそ≪教育愛≫の原初的形態であり,その根底をなすものと言えよう。
家庭の教育力が低下したと言われて久しいが,ことは学校の教育力についても全く同様である。その背景には,近年の急激な社会構造や生活様式の変化があることは言うまでもないが,それとも連動して,≪教育愛≫の空洞化傾向とその歪みもあることは否めないように思われる。
学校教育がこのことを脇に置いて性急に当面の成果のみを追求しようとするならば,それさえ満足に達成されず,21世妃に向けて「新しい学力観」が真に求めているものからますます遠のきはしないであろうか。
このような観点から,≪教育愛≫の問題を授業に焦点化して考えてみたい。
1 教育愛の源泉
人間は年齢や差別,能力や個性などとは全く無関係に,一人の人間としてもつ価値にはいささかの違いもない。これこそ「学力で人間の価値は測れない」ということである、したがって民主主義の社会では,有権者の一票の価値は「政治的教養」の程度とは関係なく,全く同等なのである。
一方,狼に育てられた子どもやアヴェロンの野生児の例をもち出すまでもなく,人間が人間になるためには学習(広義)は不可欠である。実際,日常生活においてさえ,われわれはさまざまなことを学習することなしには大きな支障をきたすのである。また,学習の成果として得られる「政治的教養」なしには民主主義の国家・社会そのものが成立しえないのである。教育基本法第8条の意義はこれである。
それら諸々の学習を助けるのが教育の働きである。その学習は誕生とともに始まる。そして,そこでは親の「与える愛」(アガペー)と子どもの「求める愛」(エロス)は欠かせない前提となる。学校教育は家庭教育に取って代わるものでは決してなく,そこでの学習の延長・発展として行われるものである。したがって,そこでの学習が効果的に行われるためにも,教師の「与える愛」と児童生徒の「求める愛」は欠かせない基盤となる。もちろん,親子の愛と学校教育における教育愛との間には同列に論じ得ない面があることは言うまでもない。
なお,教育愛には上に述べた二つの他に,いわば対等の関係で成立する愛(フィリア)もあるが,このことはとかく見逃されやすい。これは一般には友愛や夫婦愛などであるが,学校教育の場では,例えば,子どもも教師も立場を越えて一体となって学習目標を追究するような場面で成立するものである。このほか,子ども同士が文字どおり対等